カテゴリー別アーカイブ: 社会

行政-社会

『文化史とは何か』

ピーター・バーク著『文化史とは何か』(邦訳改訂版2010年、法政大学出版局)を読み終えました。先日紹介した、長谷川貴彦著『現代歴史学への展望』に触発されてです。
欧米の歴史学(すなわち、ほぼ世界の歴史学の主流)、特に文化史が、どのように変化してきたかが、よくわかりました。
バークは、次のように、その変遷を整理します。
古典的文化史(ブルクハルトやホイジンガ)、社会学(ヴェーバー)から美術史(象徴やゴシック建築研究)へ、社会と文化への関心、民衆の発見。

エリート(芸術)文化研究から出発した文化史が、社会学を踏まえ、民衆を含めた文化史(時代史)へと変化したと、私は理解しました。
そのような視点からの、日本史、日本社会史、精神史、文化史は、書かれないでしょうか。イギリス社会史は、いくつか邦訳があります。

加藤秀俊著『社会学』

加藤秀俊先生が『社会学 わたしと世間』(2018年、中公新書)を出されました。先生は1930年のお生まれ。88歳になられるのですね。この本は、先生の社会学の集大成、そのエッセンスでしょう。  表題の「わたし」には、普通名詞の「私」と、加藤先生の「私」の、二つの意味があるようです。

「社会を世間と言い換えれば、よくわかる。社会学とは世間を対象とした学問、世間話の延長である」と主張されます。しかし、学問としては、それは都合が悪いのでしょうね。専門用語で、素人がわからない話をしないと、ありがたみが薄れるのです。そして、欧米から輸入したという権威付けも。多くの学問はそれで良いのでしょうが。私たちが生きて行くには、社会学・世間学を知っている方が、苦労をしません。そこが、ほかの学問との違いです。すると、平易な言葉で書かれている方がよいのです。

私は学生時代、授業の社会学が、今ひとつ理解できませんでした。清水幾太郎さんの本で、社会学とはこんなものかと理解しました。そして、加藤秀俊先生の本を読んで、社会とはこんなものだと理解しました。また、京都大学人文研究所の先生方の本を読みました。これらは、すごくわかりやすかったです。
大学の先生の本=西欧の輸入に対し、これらの本は、日本社会を日本語で分析していたのです。だから、加藤先生や人文研の本を「社会学」とは思わなかったのです。加藤先生が書かれているように、難しい専門用語で(西欧の社会を)語ることが、大学の社会学だったのです。
その傾向は、未だに続いているようです。「思想」というと、ソクラテスから現代フランス哲学まで、西欧の思想が解説されています。日本人、それも庶民の思想は出てきません。困ったものです。ここは、歴史学において、政治史や経済史から、庶民を含めた社会史や文化史に転換したことが思い浮かびます。エリートたちの思想とともに、庶民の思想を含めて、国民の思想と言うべきでしょう。これについては、別途書こうと思っています。

この本は入門書ですが、社会学の基本が整理されています。集団、コミュニケーション、組織、行動、自我、方法です。それぞれが、私たちの日常生活、現代の生活に即して解説されています。わかりやすいし面白いです。このうち、コミュニケーションだけがカタカナです。何かよい大和言葉はないのでしょうか。

ところで、加藤先生の本になじみのない人は、先生の文章に違和感を感じるところがあるでしょう。形容詞がひらがななのです。

まだ外国人には不親切な日本

先日の夜のことです。地下鉄新宿3丁目駅で乗り換えた時、プラットフォームでまごついている白人女性2人がいました。英語で声をかけると、柱に表示された丸ノ内線の駅の一覧を示しながら、「中野新橋駅に行く方法がわからない」とのこと。

中野新橋駅は、丸ノ内線の支線にある駅です。ほとんどの列車は、本線の荻窪駅行きなので、途中の中野坂上駅で乗り換えます。
確かに、案内表示を見ても、直ちには理解できません。本線の駅が順に並んだ後、支線の駅が並んでいるのです。乗り換えることは、日本語表示でした。彼女たちは、英語の路線図も持っているのですが、小さくてよくわかりません。
と言うか、知っている私には理解できるのですが、初めての人には難しいでしょうね。駅のアナウンスは、「方南町方面は中野坂上駅で乗り換えです」と繰り返していますが、日本語でした。英語でこれですから、ほかの言語だと、もっと苦労するのでしょうね。

英語で説明したのですが、私の英語が通じているか不安だったので、「中野坂上駅まで一緒に行くから」と一緒に乗り込み、中野坂上駅では列車から降りて誘導しました。
オーストレイリア(オーストラリア)から休暇で来た、ご婦人と娘さんでした。聾唖者の学校の先生でした。
さび付いた私の英語では、説明は苦労しながらもできるのですが、聞き取るのは難しいです。

フェイスブックの功罪

4月16日の日経新聞オピニオン欄、ジョン・ギャッパー氏(ファイナンシャルタイムズ)の、「フェイスブック 「つながり」管理に限界」から。詳しくは原文をお読みください。
・・・フェイスブックはすでに、従来おざなりだった個人情報の管理を厳格化した。ところが対処できない問題もある。20億人のユーザーの無数のやり取りの中であらゆるコンテンツがウイルスのように拡散し、人々の感情や行動を左右する可能性があることに対してだ。
フェイスブックはザッカーバーグ氏が創業当初に描いた「愛する人たちとのつながりを維持し、自分の意見を表明し、コミュニティーやビジネスを築く」ようなやり取りを促したいと考えている。
それは賢明なことだろうが、問題の核心からは外れている。というのも、フェイスブックは米社会学者マーク・グラノベッター氏が言うところの「強い紐帯(ちゅうたい)」と「弱い紐帯」を特に区別しないことで急成長したからだ。前者は家族や友人、同僚との親密な関係を指す。後者は遠い知り合いや他グループの人々とのつながりだ。フェイスブックでは全ての「友達」が平等だ・・・

・・・グラノベッター氏が指摘した通り、弱い絆が強い絆より役立つこともある。例えば職探しだ。身近なところで仕事を探すより、幅広い人脈を活用した方がいい。
フェイスブックの95万7000人のユーザーと彼らがつながっている5900万人を分析した調査では「ほとんどのつながりは弱く、人脈も限定的で、やり取りも少な」かった。だからこそ、フェイスブックは「社会的隔たりを超え、幅広い層の人々に情報を伝える強力な手段」となったといえる。ある研究によると、人は気分や行動、そして体重の増減までも弱い絆の相手に影響されるという。
フェイスブック上で家族と遠い知り合いや、強い紐帯と弱い紐帯の境界があいまいになる問題点はまさにここにある。こうしたつながりは思い通りにはならず、良いことも悪いことも増殖していく・・・

歴史の見方の変化

長谷川貴彦著『現代歴史学への展望』(2016年、岩波書店)を読みました。
歴史学は、20世紀に大きな変化を遂げたようです。かつては、政治を中心にした歴史でした。また、マルクス経済学による歴史の見方が、力を持ちました。歴史小説や英雄を中心にした歴史物もあります。戦前日本の皇国史観もありました。ブルクハルトやホイジンガのような文化史(ハイカルチャー)もありました。

20世紀初頭までの「事実を発見し記述すれば歴史になる」といった見方を、見る人の視点によって歴史記述は変わることを、E・H・カーは「歴史とは現在と過去との対話である」と表現しました。その後、社会史が大きな流れになり、さらに文化史(庶民を含めた文化)に広がりました。

これら歴史学をどのように理解したら良いのか。すなわち「学派」を、どのように配置したら良いのかを知りたかったのです。良い概説書を見つけることができません。長谷川先生の本は論文集ですが、私の疑問に答えてくれました。
西洋絵画を見る際に、「西洋画の歴史案内」を読むと、それぞれの絵の位置づけがわかりやすいです。それと同じように、新書程度のもので、一般向けに史学史を解説してくださると、便利なのですが。

文化や経済といった社会構造が、どの程度、歴史を規定するのか。人という主体が、どの程度、主体性を持つのか。その相互関係なのでしょう。
他方で、見る人が何を主題にして、どのような思考の枠組みで歴史の事実を見るのか。それによって、取り上げられる事実は偏り、記述は違ってきます。
しかし、「見る人の数だけ歴史がある」では、私たちは困ります。それらの配置図が欲しいのです。さらに勉強を深めるべく、関連図書を読んでいます。