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社会と政治

その時代の意味

歴史書の表題をみていると、うまい表現だなあと、感心するものがあります。例えば、講談社の「日本の歴史」シリーズ(2002年頃発刊、講談社学術文庫に収録中)には、次のような本があります。
「文明としての江戸システム」「維新の構想と展開」「明治人の力量」「日本はどこへ行くのか」など。単に「××時代の歴史」といった表題と違い、視角が鮮やかで、その時代の特徴を一言で切り取っています。もちろん、視角がはっきりしているということは、その他の見方を切り捨てているということですが。
これらの表現に触発されて、現在の日本はどれだけの構想を持ち、力量を持っているのか、考えさせられます。また、後世の人から、どのような時代であったと評価されるのか、これまた想像してみます。
その他、講談社の「興亡の世界史」シリーズ(現在刊行中)には、「大英帝国という経験」「東南アジア 多文明世界の発見」「モンゴル帝国と長いその後」などもあります。これらも「なるほどね」と、思います。東京大学出版会の「新しい世界史」シリーズ(1987年頃)の「支配の代償 英帝国の崩壊と「帝国意識」」なども、表題だけで歴史の見方が変わりますね。

2番手をやめ、世界一を目指せ

梅澤高明さん(A.T.カーニー日本代表)が、日経新聞のサイト「BIZ+PULUS」で、ビジネスコラム「グローバル超競争時代の成長戦略」を連載しておられます。日本企業が、世界経済の競争の中で、どうしたら生き残れるかについてです。
3月16日は、「グローバル化加速に向けた変革」でした。グローバル市場で勝ち残るために、自前主義では限界がある。その際、技術、生産拠点などを買収や提携で手に入れる企業は多いが、もっと重要な「経営人材」や「ブランド」を、海外から手に入れて活用している企業は少ないことを指摘しておられます。私は門外漢なので、正確なところはわかりませんが、なるほどと思うことが多いです。
17日には、野村ホールディングスが、旧リーマン・ブラザーズ出身者を経営陣に抜擢する人事を発表しました。2008年に、破綻したリーマンから部門を買収したことと合わせ、これにあてはまる事例です。
さて、その記述の中で、韓国サムスン電子の取り組みが、紹介されています。
・・同社は過去十数年で、低コストを武器とした「日本企業のフォロワー」モデルから脱却し「グローバルリーダー企業」に進化した。前会長は1993年、「変えよう」経営を掲げ、「ナンバー2精神を捨てろ。世界一を目指せ」と号令を発した・・
との記述があります。その後に、どのようにして人材を確保し、組織をグローバル化したか説明しておられます。
このページで書いている「ガラパゴスからの脱出」「日本はどこへ行くのか」の参考事例として、引用しておきます。

日本はどこへ行くのか・その7

これからの日本を規定する要因として、「国際環境」「国民」と「リーダー」を解説してきました。リーダー論の1は、リーダーが戦わなければならない「敵」についてでした。その2は、リーダーの役割でした。その3は、誰がリーダーになるかです。
3 誰がリーダーになるのか
誰が、新しい時代を切り開くリーダーになるか。それは、まだ見えていません。
大きな改革期には、旧秩序を破壊する人と、新秩序を作る人の、二種類のリーダーが必要なのでしょう。
前二回の改革は、憲法を書き換える改革であり、統治者が入れ替わる改革でした。今回は、統治体制を変える革命ではありません。前二回と同様に、「この国のかたち」を変える改革ですが、体制改革ではなく、「書かれていない憲法」を変える作業です。日本人と日本社会の基底にある考え方、無意識のうちに行動を規定する意識を変える作業です。それ故に、誰がどのようにして改革するのかが、わかりにくいのです。
政府や政治家を考えると、ここで期待されるリーダーは、サービス提供者としての政府でなく、国民に進むべき道を示す思想家としての政治家でしょう。この半世紀の間、そのようなことをしなくてすんだので、これまでの型の政治家と政党では、担い手になりません。
また、現時点では、日本の主な政党は、国民の階層や集団を代表しているように見えません。もちろん、旧来の社会階層という分類が、役に立たなくなっているので、階層を代表する政党であっても、新しい時代のリーダーにはなれないでしょう。
多くの学者や研究者は、欧米の思想を輸入することを主な仕事としてきたので、そのような延長では、担い手になりません。マスコミも、日々の事件を追いかけるだけでは、大きな期待はできないようです。
新しい時代を開くリーダーは、どのような集団から出てきて、どのような集団が彼を支えるのか。繰り返しになりますが、日本人の思考形態、社会の仕組みを変えるのですから、リーダーが提唱するだけでなく、国民、企業家など様々な人と集団が関わってくる必要があります。
そして、その際には、様々な勢力のせめぎ合いになるのでしょう。後から見れば、あるいは離れて見れば、「なぜ内輪でもめているのだろう」「効率の悪い競い合いをしている」と見えるでしょう。しかしそれは、試行錯誤、諸集団のせめぎ合いであるので、致し方ないことです。
自虐的な見方をしているだけでは、良くなりません。革命待望論でも、解決しません。日々の政治や経済社会活動を、積み上げていくしかありません。はなはだ抽象的、歯切れの悪い話になりました。

日本はどこへ行くのか・その6

日本の国民とリーダーが克服しなければならない課題に、もう一つのものがあります。それは、現代社会の不安です。これは日本に特有の課題ではなく、現代の世界の先進国に共通の課題です。
現代社会の不満と不安は、豊かになったことで生まれてきました。豊かになったことで見えてきた不安であり、課題です。貧困が人類の最大の敵だった時代は、貧困との闘いがその他の課題を隠しました。しかし、豊かになったことで、経済成長は幸せのすべてではなくなりました。
近代とは、産業・科学技術・経済が進めば幸せになるという思想の時代でした。そして、イエ(血縁共同体)、ムラ(地域共同体)、身分といった「前近代」の束縛から、解放され自由になることでした。さらに進むと、疑似家族であるカイシャ(会社、職場)から自由になることでした。
それは、家族、親族、地域共同体、会社などの絆を希薄にしました。そこに見えてきたのは、不安な個人です。束縛や伝統は不自由ですが安心をもたらします。自由は個人の才能を発揮させますが、不安をもたらします。近代が進むにつれて、近代はバラ色ではなくなったのです。
これをどのように、克服するか。近代・現代社会が、私たちに突き付けている大きな課題です。
2 政府とリーダーの役割=痛みの明示と負担の配分
このように、戦わなければならない大きな課題は、「日本人の思考形態」と「近代社会の不安」の2つです。もちろんその他にいろいろな課題がありますが、その基底にはこの二つがあるのです。
そこで、政府とリーダーは、何をしなければならないか。まずは、痛みを国民に理解してもらうことです。
今までの政治は、右肩上がりの経済社会を背景に、利益を配分することでした。さらに、低成長になってからは、負担を先送りしています。しかし、今のままでは、財政と年金は破綻します。世代間の大きな不公平を、生み続けています。高度成長期の思考から、抜け切れていません。
これまでは所得再分配と言っても、既存所得を取り上げるのではなく、増分から拠出してもらいました。それを、貧しい人に配りました。痛みは少なかったのです。しかしこれからは、増分が大きくないと、既存所得から拠出してもらうことになります。不利益の配分なのです。
そして、その他の改革にも、痛みが伴います。多くの社会集団は、これまでの仕組みの中で存在し、利益を上げてきました。利益を失う改革には、反対します。
二回の転換期には、不利益を被った人たちも、たくさんいました。明治維新に際しては、武士階級は一夜にして失業しました。人口にして、6~7%もの人と家族です。新しい商工業が入ってきて、商人や職人のなかに、仕事を失った人も出ました。戦後改革の際には、軍人は失業し、地主や富裕層は財産を失いました。それを、国民に納得してもらわなければなりません。
戦後半世紀、日本は大成功したが故に、このような不利益の配分や改革の痛みを知らずにすみました。政治は、痛みと負担を国民に示したことがないのです。
開国による痛みには、このほか国際貢献の負担、一国平和主義から脱却するに際しての痛みもあります。
抜本的改革を唱える人が多いですが、その際には不利益を被る人がいること、負担を求められることを、説明してもらう必要があります。そしてリーダーには、その国民の不満を回収・吸収することが求められます。
国民の多くは、これまでの成功体験を捨てることは、できません。
最近の記事に、日本が中国に追い抜かれることを、取り上げた記事が目につきます。それは、日本がこの150年の間に、追い抜くことはあっても、新興国に追い抜かれることはなかったからです。日本特殊論、日本異質論は、それによって日本が成功したという説であっても、だから日本はダメなのだという説であっても、心理は同じです。「日本人は優秀であり、世界に認めて欲しい」ということでしょう。その自負を持ちつつ、新たな展開が必要です。(この項続く)

数字にできるもの、できないもの

例によって、放ってあった本を、布団の中で読みました。坂上孝ほか著「はかる科学」(2007年、中公新書)です。この本にも紹介されていますが、クロスビー著「数量化革命-ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生」(2003年、紀伊國屋書店)を読んだ時は、目を開かれた思いをしました。ヨーロッパが世界に先駆けて「進化」したのは、時間(時計と暦)、空間(地図、海図と天文学)を数量化し、さらには音楽(楽譜)や簿記といったものを発明したことに起因すると述べていました。時間、距離、重さ、量などを、数字化したのです。その他、温度や明るさ、早さ、地震の大きさ、血圧に尿酸値など、科学技術はたくさんのものを、測るようになりました。
一方、測ることができないものも、たくさんあります。そして、表現しにくい、伝えにくいものも。
感情は、測ることも、伝えることも難しいです。悲しさ、うれしさは、「死ぬほど」とか「飛び上がるほど」と言いますが、その程度は本人しかわかりません。いくら同情されても。「あなたなんかにわからない」です。と言いつつ、時間が経つと、本人もその程度を忘れてしまいます。「死ぬまで忘れない」という恨みもありますが。
モノの価値はお金で計るようになりましたが、喜びや満足は、なかなかお金では測ることはできません。「金に換えられない」という言葉があります。「人の値打ちは金で計れない」とか、「かけがえのない命」も。
奥さんの優しさなども、数字で表せないですよね。「1キョーコ」「2キョーコ」といった単位があれば便利ですが。「私がこんなに愛しているのに・・」と言われてもね。夫の愛情を、指輪のダイヤモンドの大きさで測る女性もいるようですが。
音の高低や長さは数量化されましたが、メロディの心地よさは数量化されていません。人によって好みが違います。絵画もそうです。フィギュアスケートは、採点します。しかし、美しさを直接測ることはできないので、いくつかの採点基準を決めて測ります。
肌の痛みは、ある程度、各人に共通です。注射針の痛みは、たぶん共通でしょう。でも、「1注射」あるいは「3痛み」なんていう単位は、まだないのでしょうね。
客観的で、みんなが「触ることができる」ものでも、数量化できていないものもあります。匂いが代表でしょう。ワインも、フルーティだとか干し草のようなとか、比喩でしか表現されません。日本酒の「辛さ」は数量化されましたが、おいしさそのものは数量化されていません。ビールののどごしも。肌触りも、伝えにくい、数量化できないものでしょう。暖かい毛布の肌触り、冷たい金属の表面、ぱりっと乾いたタオル・・。