カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

政権与党、自民党の変化

3月30日朝日新聞「月曜に想う」は、星浩特別編集委員の「単色の自民 多色に戻る日は」でした。「自民党内で、自由な議論ができなくなってきているということなのだろうか」ということについて、次のように書いておられます。
・・30年近く、自民党をウオッチしてきたが、確かに、昔のように右も左も、タカもハトも入り乱れて、時には灰皿を投げ合ったりして激論を交わす光景は見かけなくなった。なぜか。
私なりに整理すると原因は三つだ。第一に衆院に小選挙区制が導入されたことで、各選挙区の公認候補は1人に絞られ、競い合って候補者を擁立していた派閥の存在理由が薄れてきた。選挙資金も党役員・閣僚の人事も、総裁や幹事長が一手に握っているから、議員たちには、執行部に背くのは損だという計算が働く。
第二に小泉効果だ。小泉純一郎首相当時の郵政民営化騒ぎで、首相の意向に背くと党を除名され、選挙では刺客と呼ばれた対立候補を立てられる。こっぴどく痛めつけられる現実を見た政治家たちは、物を言わなくなった。
そして第三が野党経験。民主党に政権を奪われて3年余、官僚も業界団体も寄りつかない。早く政権に戻りたいという願望は強かった。民主党内の混乱ぶりを見て、「党内対立が政権の命取りになる」ことも実感した。かくして、老いも若きも首相の言いなりという「単色の自民党」ができあがった・・
詳しくは、原文をお読みください。

現在日本の政治分析、政治部の役割

3月24日の日経新聞「核心」は、芹川洋一論説委員長の「自民党2.0の危うさ 新たな統治の技見えず」でした。
・・自民党がすっかり変わってしまった。派閥がこわれ、権力の重心が首相官邸にうつり、保守の色合いがどんどん強まってきた―。
政権党にもどって1年3カ月。1955年の保守合同から来年で還暦。一党支配の55年体制下での自民党をバージョン1とすれば、現在はバージョン2=2.0。時代も、制度も、組織も、なにもかもが違っているのだから当たりまえだ。自民党は昔の自民党ではない。
そこで問題なのが統治の技法だ。1.0のころ、つちかったものは、すでに通用しない。だとすれば、新たなやり方を探っていかなければならないはずだが、どうにもはっきりしない。
政治を変えるのは、制度なのか、人なのか、しばしば議論のあるところだが、この20年の日本政治をふりかえると、制度の変更がまちがいなく効いている。
ふたつある。ひとつは、小選挙区の導入・政治資金の規制・政党交付金の創設を3点セットとした94年の政治改革だ。もうひとつは、省庁再編で首相のリーダーシップの強化をめざした、橋本龍太郎首相による「橋本行革」である。こちらは2001年からだから10年以上になる。
政治を突き動かすのに人の要素もやはり否定できない。「自民党をぶっ壊す」といって本当にその通りにした小泉純一郎首相の存在を抜きにして自民党の考現学は語れない。自民党1.0から2.0への分岐点は、01年から06年まで5年5カ月つづいた小泉政権にあったとみてよさそうだ。
その変化は何なのか。列挙してみよう・・
として、次の3つを挙げておられます。。
その1=派閥連合体から議員集合体へ
その2=ボトムアップの政策決定機関から「官高党低」の政策追認機関へ
その3=現世利益追求型から保守の理念追求型へ
詳しくは、原文をお読みください。
もちろん、自民党が変わった、あるいは統治の技法が変化せざるを得ないのは、日本社会が西欧への追いつきに成功し、豊かな成熟社会になったこと、また冷戦の終了と新たなグローバル化という、内外の条件が変わったことに、大きな理由があります。そして、野党との間に明確な対立軸を設定できていないことも、一つの要因(結果?)です。
さて、芹川論文に戻ると、切れ味の良い現代日本政治分析です。マスコミの政治部には、このような分析、論文が欲しいですね。日々のニュースを追うより(特に番記者として政治家を追いかけるより)、現在の政治の何が問題なのか、そしてその原因や対策を書いて欲しいです。

歴代内閣の世論評価

22日の読売新聞に、世論調査結果(回答者1997人)が載っています。その項目の一つに、最近10年間の歴代7内閣の評価があります。最も良いが10点、最も悪いが0点、中間が5点とした、11段階評価です。
高い順に並べると、次のようになっています。小泉内閣6.5点、安倍第1次内閣4.5点、福田内閣4.2点、麻生内閣3.9点、野田内閣3.8点、菅内閣2.9点、鳩山内閣2.4点。

政治評論の役割、3

御厨貴著『馬場恒吾の面目』の続きです。もう一つ興味深かった指摘を紹介します。
・・『危機の20年』―これは高名な歴史学者E・H・カーによる戦間期20年を扱った名著の題名である。カーの命名の仕方にあやかれば、1931年の満州事変の勃発に始まり、1955年の55年体制の成立に至る四半世紀こそ、20世紀の日本にとって「戦争」による危機と変革の構造を含んだ一つの時代であった。
「危機の25年」―満州事変に始まり、5・15事件、2・26事件という国内騒乱を経験し、日中戦争そして日米戦争に突入する。敗戦の後はアメリカ軍による占領改革を経て、復興の最中に55年体制の成立を見る・・(p16)
なるほど、そうですね。私たちは、1945年(昭和20年)の敗戦で、日本の歴史を大きく区切ります。戦後改革で、日本の政治、経済と社会は、大きく変わりました。しかし、御厨先生が指摘されるように、日本の政治、日本人はどのように国の進むべき道を選んだかという視点からは、1945年で分けられるのではなく、戦前の政党政治が終わった1931年から、次に戦後の政党政治が安定した1955年までを一区切りとしてみることが重要です。目から鱗でした。
ある日を境に、前の時代(政治体制)が、次の時代に代わるわけではありません。前の時代が倒れた後に、新しい時代を作る過程・苦しみがあります。それは、明治維新も同じでした。江戸幕府が倒れてから、明治国家が軌道に乗るまで、結構な時間がかかっています。どの時点をもって軌道に乗ったかは意見が分かれるでしょうが、西南戦争までで10年、明治憲法までが23年です。
すると、第3の開国と呼ばれる、現在の改革はどうでしょうか。例えば、1991年バブル崩壊を起点とすると、それから既に23年が経ちます。政治改革、規制改革などが進行中です。この間の行政改革を、単にスリム化ではなく、行政のあり方、さらには国家のあり方の改革として、分析を試みたことがあります。行政改革の現在位置」(年報『公共政策学』第5号p37、2011年)。時間ができたら、じっくりと考えてみましょう。

ニクソンとキッシンジャー外交、2

現実主義というと、現実にとらわれ、現状を所与のものと考える、と思ってしまいます。すると、何も変えることができません。
そうではなく、理想は直ちには実現できないが、各国の利害が錯綜するなかで、少しずつ理想に近づける・自国の利益を進めるというのが、ここに言う現実主義です。そこでは、現実に流されるのではなく、何ができるかを想像し、策を打っていきます。その反対は、想像力がなく、現実に流され、その場限りの取り繕いをする「その場主義」でしょうか(反省)。
彼らの現実主義は、想像力を持って、かつ現実的な対策を打つという、能動的なものです。理想主義と同様に、理想は持っています。違いは、できることから行うのか、できないことを言うのかの違いでしょう。
政治を、可能性の空間と考えるか、決められたこと・運命と考えるかの違いです。「政治とは可能性の技術である」とは、ドイツの大宰相ビスマルクの言葉です。そのためには、想像力の大きさと、打つ手の確実さが必要です。これは、大政治(ハイ・ポリティクス)に限らず、どの世界も同じでしょう。
さて、本書は、新書版の分量で、ソ連との戦略兵器削減条約、米中和解、ベトナムからの撤退という大きな外交戦略を分析しています。その結果、わかりやすいですが、生々しさまでは書けていないようです。
ところで、二人三脚で進められたニクソン・キッシンジャー外交ですが、2人はかならずしも仲が良かったわけではありません。これについては、カール・バーンスタイン、ボブ・ウッドワード著『最後の日々―続・大統領の陰謀』を紹介しました(2013年3月20日の記事)。