カテゴリー別アーカイブ: 官僚論

行政-官僚論

公務員制度

日経新聞「やさしい経済学」は、清家篤先生が「人的資本」を連載しておられます。
・・企業特殊的な生産能力の向上と、それに対応した長期雇用は、「人的資本」の主要概念だった。この特殊性は、最近の公務員制度改革を考える際にも重要な意味を持つ。というのは、もともと民間ではできない仕事を公務員が行っているとすれば、その仕事能力は公務部門でのみ役に立つ特殊な種類のものと考えられるからである。
典型的な例として、国の予算作成といった仕事をするための能力は、民間ではあまり使えそうにない。そうした高度に公務特殊的な能力を高めるための費用は、国、すなわち国民が負担しなければならない・・
公務員が民間ではできない特殊性のある仕事能力を磨いてきたとすれば、彼らが民間に転職することは容易ではない・・そうした公務員には、最後まで公務員として仕事をしてもらわなければならない。
もちろん公務員の中にも、民間企業で役立ちそうな能力によって仕事をしている人もいる。たとえば経済分析といったような仕事をする能力は民間企業でも使えそうだ。そうした仕事に従事する公務員なら、比較的容易に民間に再就職できるかもしれない。しかし、よく考えてみれば、民間でもできる仕事なら、それをわざわざ公務員にやってもらう必要はなく、外注すれば良いともいえる・・
こう考えると、公務員制度改革の柱が、民間企業への再就職支援制度というのは、やはり変である。むしろ改革の中心は、職業生活の最後まで、安心して公務員として仕事をしてもらえる制度(適切な年金制度も含む)をつくることであるべきだ・・・

公務員制度と実態

私は、日本の行政を論じるときに、これまで主に公表資料と私の経験とで話してきました。ところが、公務員法の解説や制度を解説した本はあるのですが、その機能や問題まで分析した本は案外見あたりません。ジャーナリストの書いたおもしろおかしい本は、たくさんあります。でも、それではねえ・・。
人事院の「公務員白書」は、仕組みや数字が載っています。しかし、まだまだ分からない点があります。例えば、各省に1種採用は何人いるか、その内訳(法律職・技術職とか)はどうなっているか、1種2種3種の人数、事務官・技官・研究職の数、本省と出先の数、平均的は昇進速度はどうなっているか、指定職は何人いるか、平均退職年齢はどうなっているかなどなど。探せばあるのかもしれませんが、簡単に分かる資料がないのです。これらは、法律の解説や制度の解説では、分からないのです。公務員制度改革論議が盛んですが、基礎資料が国民に共有されていません。
適当な資料を探していたのですが、教えてもらいました。行政改革推進本部専門調査会の資料です。特に、第3回の資がわかりやすいです。ありがとう、酒田君。

公務員制度改革と政治の責任

13日の東京新聞「時代を読む」は、佐々木毅先生の「公務員制度改革は大丈夫か」でした。
・・「公務員制度改革に関する政府与党合意」を公務員制度改革に取り組む政治部門の決意表明と考えた場合、率直に言えば、危機感の乏しさが気になる。
第一に、新たな人事評価制度の構築による能力・実績主義の実現が今度の「合意」の大きな柱であるが、その実施主体について全く新しい発想がない。役所と人事院が、それぞれ適宜実施すべしとする以上のものが全く見あたらない。これでは、従来と何が変わるのかと思っても当然である。この改革がどれだけ膨大なエネルギーとコストを要するかについて、深刻に検討した痕跡が見あたらない。霞ヶ関には人事部に相当するものがないし、公務員改革は実施主体のデザイン抜きには現実味を持たないに違いない・・・
第二に、「世界に誇れる公務員」を創るといったレトリックは別にして、霞ヶ関の現状をどう評価するか、どのような処方箋を考えているのかについても、危機感が見あたらない・・われわれが耳にするのは、優秀な人材が相次いで流出し、若い優秀な人材がそもそも集まらなくなった組織というイメージである。その病は深刻である。
その結果、日本政府の国際競争力の劣化は急速に進行している。これは公務員叩きがあらゆるところで、どこまでも続くという社会環境からの当然の帰結である。
国民に代わって公務員を直接に雇い入れ、管理責任を負っているのは政治部門である。公務員制度が劣化するならば、政治部門が国民に説明責任を負わなければならないのは当然である。この筋道からすれば、政治部門が公務員を「叩いて」点数稼ぎをするというのは本来邪道である・・・
正確には、原文をお読み下さい。

公務員制度改革と政治の責任

佐々木毅教授「新人材バンク論争は空砲か?」(雑誌「公研」2007年4月号)から。
・・各省庁の押しつけ的斡旋を廃止することに反対する国民は少ないと思われるが、一元化すれば何が解決され、何が解決されずに残るのであろうか・・・このように、どこか焦点がずれるようなことになるのは、霞ヶ関の使用者がはっきりしないことにその淵源がある。公務員であるから国民が雇い主であるが、実際に誰が国民を代表して使用者としての責任を負うのかがはっきりしない。究極的には政府を代表する内閣がその任を負うはずであるが、内閣が省庁の上に載っているだけの存在である限り、内閣が使用者としての責任意識を持つことは期待できない。
・・使用者としての最終責任を負うのは、与党とそれが組織する内閣である。ところがこの使用者は見るべき人事政策を提唱し、それに従って被用者の人事管理を自ら行ったことはほとんどなかった。正確に言えば、それでもやってこられた・・
しかも、使用者と被用者が協力して国民に対して責任を果たすどころか、時には相手を批判することが仕事のような印象さえ与えている。国民に対して説明責任を果たすことを通して、被用者を政治的に弁護すべき立場にある使用者が、被用者を批判することで責任を果たしたかのように思いこんでいるとすれば、事態は深刻である。
誰も政治的に擁護しようとしない公的組織が衰弱し、見放され、相手にされなくなるのは、理の当然である。その意味では、霞ヶ関は政治的な危機にさらされ続けている。これで人材が集まったり、日本政府の国際競争力が高まるとすれば、奇跡であろう・・

官僚の転職

15日の日経新聞「成長を考える」は、「官僚再論」でした。若手官僚が、次々と転職していることを取り上げています。アメリカの大学院で、日本では「エリートとされる人材が役所に集中し、リスクを取らない日本に飛躍は期待できない」と指摘されたこと。政治が、強すぎた官僚をたたき、権力の新たな均衡を模索する動きが強まる中、官僚集団には閉塞感が漂うこと。
一方、制度そのものが国際競争にさらされ、国の成長力も左右される中で、誰が政府を担うのかが課題になっていること。そして日本でも、すでに金融庁の検査官、財務省理財局の国際アナリスト、FTAの細部を詰める際の弁護士など、専門家が必要となっていて、2006年には期限付き民間出身国家公務員は72人になっていること。政策提言をする研究機関などが増えてきていること、などが取り上げられています。