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行政-官僚論

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、3

昨日に引き続き、一部を紹介します。
(幹部の不勉強)
・・陸軍省の各局長の集まってやる当時の重要行事たる予算省議における局長級の不勉強ぶり・・・何も仕事を知らない・・・のには、私もこれに列席して一驚を喫した次第で、自分の局の仕事とは知らず、他の局の担任と思って予算削減を強硬に主張し、後でこれを取り消す等驚いたものであったが・・(p43。引用文中の・・・は、原文のままです。たぶん活字になると問題となる、赤裸々なことが書いてあったのでしょうね)。
・・時々大臣について方々へ行った。陣頭指揮はまず上長の部下掌握に始まる。師団長、旅団長級の指揮官で、幕僚のつくった報告をもっともらしく読み上げるが部下将兵の数を知らないものの多いのには一驚した。細部はともかく、大体部下が1万5千なのか、2万なのかもはっきりつかんでいない将軍が少なくないのには本当に驚かされた・・(p197)。
読んでいて、私も驚きます。ここは実名ではありませんが、随所に出てくる実名幹部の人物評は、歯に衣を着せず、おもしろいです。笑っていられない場面もあります。
(人事)
・・補任課(注:人事課です)は以前は各方面の人が入れ替わっていたが、近頃は一種の人事屋なるものができあがり、しかも狭い視野で独善的に人事を決める癖があった。いわゆる人事の一元化で無理をした結果、歩兵の将校でせいぜい士官学校の区隊長くらいの経験しかないものが、各方面の人事の専権をふるうようになった。軍の能率をこれがために阻害したことは幾ばくなるかを知らない。
また人事屋が一連の閥をつくり、ひとたびこの人事屋からにらまれると永久に浮かばれない。―実際有用の人物で、埋もれた人も多くあった・・(p70)。
・・日本の将校、特に中央部勤務将校が、戦術を錬磨し兵学を勉強する機会の少なかったのは、なんといっても大きな欠陥であった。陸大卒業以来、事務に没頭して、いきなり高級指揮官となるという変則的人事が、かえって満州事変後の常則的人事となっていた。やむを得なかったとはいえ遺憾なことであった・・(p103)。
有名な統制派対皇道派の対立も書かれています。露骨な人事に驚きます。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、2

前回の続きです。この本は、「日本陸軍終焉の真実」という副題がついています。
日本と日本陸軍が道を誤ったことについて、失敗の原因を分析する際には、政治指導者、統治機構、世論、現場の軍隊の行動、戦略や作戦、兵器と補給など、さまざまな視点があります。そして、これらに関して、たくさんの本が出ています。しかし、この本のように、軍事官僚が陸軍省内部から見た記録は、そうはないでしょう。
また、作戦を立て遂行するためには、部隊(大量の兵士)を養い動かすこと、武器弾薬を補給すること、その経費をどう見積もり手当てするかなど、その背後に膨大な事務作業があります。それを、官僚たちはどのように処理したか。興味深いです。
平時は、毎年の定例作業なのでしょう。前年の実績を元に、増分と減分を調整すればすみます。しかし、戦時になると、変更部分がとてつもなく多くなり(本文中に、一挙に3倍になるとあります)、また不確定要素が増えます。作戦の進行や変更によって、どんどん変わってきます。それをどう裁いたかです。
順次、興味深い記述を紹介します(引用する際には、一部書き換えてあります。また、注は私が入れたものです)。
まず、登場する軍人の名前には全て、陸軍士官学校の第何期生であるかが、記されています。年次が重要だったことがわかります。これは、現在も同じ。
また、頻繁に人事異動があります。官僚機構ですから、当然ですが。例えば軍務局長は、昭和6年当時は小磯国昭、その後10年の間、昭和16年の武藤章まで、12人です。一人で3度勤めた人もいますが。
(行革について)
・・人馬の減少、官衙の改廃等はなかなか細かいものであった。後年の軍備充実の大まかなやり方は、当時としては全く夢にも考えられない有様だった。鈴木宗作中佐の指導を受けて、本当に文字通り一兵一馬の予算をはじきながら、毎日コツコツと、火事場のような課の中で仕事を進めていた・・
・・判任官(注:現在では常勤職員でしょうか)一名の削減がどうしてもできず、ついに省内の各課を歴訪してどこでもけんもほろろの有様、ついに(広島県)宇品の運輸部の小蒸気船の機関長が判任文官だということを知って、防備課に三拝九拝、やっとこれを嘱託か雇員かに直して、ようやくつじつまを合わしたこともある・・(p37)。
この後に、馬を削った際の、著者の作戦と現場からの反発が書かれていますが、これは本文をお読みください。おもしろいです(失礼)。
この項、続く。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり

西浦進著『昭和戦争史の証言―日本陸軍終焉の真実』(2013年、日経ビジネス文庫)が、勉強になりました。
著者は、1901年生まれ、陸軍士官学校を優等で卒業した(恩賜の銀時計)、エリート軍人です。この方の特徴は、その勤めの大半を、陸軍省軍務局軍事課で過ごしたことです。陸軍大学校を卒業してから(昭和6年、29歳)、戦地へ転出する(昭和19年、42歳)までの間、海外駐在の3年間を除き10年間を軍事課で勤め、最後は課長になっておられます。
今で言うと、係長から課長補佐、そして課長を勤めたということでしょう。東条英機陸軍大臣の秘書官も勤めています。軍務局は陸軍省の中枢、そして軍事課はその軍務局の中枢でした。国防の大綱、軍備と軍政、予算を所管していました。550万人の軍人を動かすのです(人事は人事局で別の課が所管していました)。戦場で活躍するのでなく、事務において活躍されたという意味で、軍事官僚(軍人官僚)と、呼ばせてもらいます。
この本の元になった原稿は、昭和22年、戦後間もないころに書かれました。陸軍省の中枢、それも中の中から見た(単に幹部から見たという意味でなく)、実録であり反省記と言えます。
表題は、『昭和戦争史の証言―日本陸軍終焉の真実』となっていますが、私は、官僚にとっての勉強の書として読みました。軍事官僚の仕事ぶりが、わかります。
もちろん、時代背景や組織内の気風も大きく異なります。武官と文官を一緒にしてはいけないのでしょうが、その違いを超えて、政策と組織を管理することは、官僚(特に組織を動かす職にある官僚)として同じです。そのような視点から読むと、どのように仕事をしたかについて、とても参考になりました。
「日本陸軍」といっても、単体でそのようなモノがあるのではなく、人の集まりです。その人も、超人でもありません。私たちと同様に生身の人間が、教育と訓練を受け、組織の規則と慣習に従い、そして本人の志や欲望で、判断したことです。日本陸軍というと、私たちにとっては歴史の話であり、失敗ばかりを聞かせられます。でも、つい先日、私たちの先輩が行ったことなのです。
例えば、仕事ぶりについて書かれた文章を紹介します。筆者が赴任直後、満州事変勃発当時の記述です。
・・私は編成班の末席に入って、宇垣一成陸相の当時の立案にかかる軍備整理と、政府からの要請による行政整理の仕事を担任させられた。かたがた、最新参者として局長の副官的仕事、軍事課の庶務将校も兼ねた(注:今で言う行革と、局長秘書と、庶務係長でしょう)。
後年専門の庶務将校ができたが、当時は一人三役で、しかも事変勃発直後とて毎日課内はゴッタ返しの忙しさ、昼食ももちろん仕事をしながら事務室でやり、夜は帰宅は9時頃より早いことはなかった・・(p34。う~ん、現在の官僚は、国会時期になると夜12時は当たり前になっています)。
次回以降、いくつか興味深い記述を紹介しましょう。

官僚の象徴、スリッパで仕事

8月23日の日経新聞連載「迫真、取引所大競争。スリッパ禁止令」から。
・・「官僚よりも官僚的だ」。東証の職員はこれまで、霞が関の役人からも、こう冷やかされてきた。国内では断トツの市場である東証は、黙っていても企業や投資家が集まる殿様商売の時代が長かった。市場の運営という公的な役割を担うこともあり、お役所体質が染みついた。その象徴が、職場でスリッパを履いて働く人の多さだった。自ら外には出ない、待ちの姿勢だ・・
う~ん。スリッパが官僚の象徴ですか。世間では、そう思われているのですね。これについては、『明るい係長講座』でも、挿絵入りで批判しました。
また、待ちの姿勢については、新入生の時に、先輩から「お客さんが来ているうちは、商売ではない。客が来なくなってからどうするか。それが商売や」と言われたことを、思い出しました。その頃は、民間の商店のことを思い浮かべましたが、役所にも拡大できますね。

法学部を重用する会社と社会

朝日新聞8月4日、「日曜に想う」山中季広記者の「強さ・速さ・美しさ、囲碁が映す三国志」から。かつて日本が圧倒的に強かった囲碁が、今や中国、韓国、台湾に追い抜かれたことを紹介した後に、次のように書かれています。
・・わずか四半世紀ほどの間に、勢力が日韓中→韓日中→中韓日と移ったわけだが、この興亡順は多くの産業でも見られた。とりわけ製鉄や半導体など、日本がかつて優位を誇った業種が、同じ経過をたどっている。
たとえば造船業界をみると、日本は50年代半ばから完工トン数で世界一を保った。後発国に技術を教える立場だったが、その韓国が2000年に日本を抜く。11年後、中国国営企業群が韓国から首位を奪いとる。
「囲碁も造船も同じ。日本が100年以上かけて築いた高みを、韓国は20年ではい上がる。中国はわずか10年で抜き去るのです」と話すのは、海外職業訓練協会アドバイザーの小川真一さん(67)。造船マンで、工業技術の海外転職に詳しい。囲碁ファンでもある。
ソウルやロンドンに駐在した経験から、痛感したことが一つあると言う。「中韓に比べると、日本は理工学部卒のエンジニアを大切にしない。会社でも政治でも、日本は法学部卒を重用しすぎる。ものづくり業界が学生に不人気なままでは、政財界の中枢にエンジニアが多い中韓に対抗できません」
言われて、法学部卒の私は答えに窮したが、日韓中→中韓日の荒波をかぶった世代ならではの気迫を感じた・・
私も法学部卒ですが、思い当たる節があるので紹介します。