カテゴリー別アーカイブ: 官僚論

行政-官僚論

官僚の板挟み、法律と信条が相反したら

読売新聞連載「時代の証言者」は、2月15日から、高木勇樹・元農林水産次官の「日本の農政」が始まりました。初回の見出しは、「農業の守り方、間違った」です。
食糧増産のために、秋田県八郎潟を干拓し、大潟村がつくられました。広い水田を求めて、1967年以降全国から589人が入植しました。しかし、この時期から米は余りはじめ、1971年、本格的な減反政策が始まります。
減反政策に従わず、作付けしてできた米は、ヤミ米と呼ばれました。当時の食糧管理法は、政府が買い取る政府米と、そうでない自主流通米とを認めていましたが、減反に従わないヤミ米の販売は違法とされていました。大潟村では農家が、減反順守派とヤミ米派に2分され、ヤミ米派3人が、国によって食管法違反で起訴されました。
・・でも、食管法が守られなくて困るのは役所だけ。売るために必死につくったヤミ米は政府米よりおいしく、消費者はそれを知っていました。食糧難の時代はとっくに終わっていたのです。
3年後、3人は不起訴になります。当時、食糧庁の企画課長だった私は、テレビ局にヤミ米派との対談を頼まれましたが、断りました。嘘をつくのが怖かったのです。官僚の私は口が裂けても「法が悪い」とは言えませんが、心の中には米政策に対する疑問が芽生えていました。それはその後も膨らむ一方だったのです・・

国際課税の基準を作る。浅川君の活躍

毎日新聞1月29日オピニオン欄に、浅川雅嗣・OECD租税委員会議長が出ていました。「多国籍企業の租税回避」。
浅川氏は、財務省の総括審議官で、OECD租税委員会議長を兼ねています。OECD租税委員会は、国際課税の基準を作る会議です。彼は、初めての日本人議長です。年に何回かパリで会合を開き、英語で取り仕切っているとのことです。麻生総理に一緒に仕えた、秘書官仲間です。別の秘書官仲間から、「格好良い写真と一緒に出ているよ」と教えてもらいました。
・・OECDが 1961年に発足した当時、企業の所得に対し本国(居住地国)と進出先の国(源泉地国)の二つの政府が課税する二重課税が大きな問題となっていました。OECDはこれまで二重課税の防止を主な目的に掲げ、源泉地国での課税を抑制するルール作りを進めてきました。
しかし、グローバル化の進展により国際課税ルールと企業の経済活動との間でミスマッチが生じています。いずれの国でも課税されずタックスヘイブン(租税回避地)で所得を留保する二重非課税のケースや、税金を支払ってはいても、必ずしも経済活動が行われている国に適正な額を納めていないなどのケースが増えてきたのです・・
・・国際課税ルールは欧米主導で始まり、議長はずっと欧米人でした。今やグローバルな視点が不可欠になっています。例えば、中国やインドというアジアの新興国を排除してOECDだけで議論を進めても物事が進まないので、日本に橋渡しをしてほしいという期待が寄せられていることもあると思います。逆に、新興国にとっても、居住地国か源泉地国かに関わらず、経済活動が行われている国での適切な課税を追求するBEPSの取り組みは、関心が高いのです。
本来課税権は国家主権の基本の一つです。他方で個人・法人の経済活動は国家主権を意識せずボーダーレスな広がりを見せています。この二つのギャップをいかに埋めるか。OECDの本プロジェクトは、グローバルな課税権の調整という大きな課題に向けた、始まりの一歩になるかもしれません・・

組織の腐敗

日本軍の失敗を分析した書物では、戸部良一ほか著失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(1984年、ダイヤモンド社。中公文庫に収録)が有名です。最近の読みやすいものとして、猪瀬直樹ほか著『事例研究 日本と日本軍の失敗のメカニズム―間違いはなぜ繰り返されるのか』(2013年、中央公論新社)があります。このページでも、紹介しました(2013年8月31日。興味ある方には本を読んでいただくとして、一節を引用します。
軍中央の指示に従わず、現地で独断専行して戦争始めます。しかし、その首謀者たちは責任を問われません。
・・軍法に反する行動をとっても、罪に問われず、結果が良ければ、英雄にさえなれる。これが、軍事組織を堕落させ、腐蝕させる重要な一因をつくっていたのではないだろうか。こうした行動は外地で繰り返されたばかりでなく、日本国内にも持ち込まれて下克上の病症を悪化させてしまったのである。
1936年頃、関東軍による内蒙工作が日中関係をこじらせていたので、当時参謀本部を実質的に動かしていた石原莞爾は現地に飛んで、関東軍参謀たちに工作の抑制を説いた。そのとき参謀の一人が「満州事変で、貴官がやったことと同じことをしているだけですよ」と発言し、満座の失笑を引き出したという。このエピソードほど、日本陸軍の堕落と腐蝕の深刻さを物語るものはなかった・・・(p51、戸部良一執筆「プロフェッショナリズム化ゆえに起きた昭和陸軍の暴走」)。

失敗に学ばない、ノモンハン事件

日本陸軍の失敗について、引き続き。あまり楽しい話ではありませんが、失敗に学ばなかったという事を繰り返さないために、書いておきましょう。
読売新聞連載「昭和時代」10月12日は、「ノモンハン事件」でした。昭和14年(1939年)に、満州国とモンゴルとの国境線で起きた戦闘です。日本陸軍が、ソ連軍の前に大敗を喫しました。日本軍の失敗の例として、必ず取り上げられるので、ご存じの方も多いでしょう。組織の失敗という観点からは、いくつかの大きな意味がありました。
日本陸軍にとって初の近代戦で、ソ連軍の前に壊滅しました。戦争ですから、勝つことも負けることもあるでしょう。しかし、組織としての失敗は、まず、この結果を学習しなかったことです。
しかも、第1次ノモンハン事件で、ソ連の戦車や火砲の前に部隊を壊滅させながら、第2次ノモンハン事件でも、相手の情勢を分析せず、ソ連機械化部隊と日本軍歩兵が白兵戦をするのです。戦死者、戦傷、戦病死、計2万人という大きな犠牲です。失敗を次に生かすことをしませんでした。
さらに、この戦闘そのものを隠蔽し、事件を分析しながら、報告書は取り上げられなかったようです。それどころか、その後、敵軍の武力を軽視し、日本軍の精神力で勝つのだという、精神主義を強調することになります。
組織としての失敗の二つ目は、現地関東軍が、陸軍中央の指示を無視して、戦争を始めたことです。官僚制機構の特徴の1つが、法令に基づき、部下は上司の命令に従うことです。その極である軍隊で、部下が上司の命に反する。あってはならないことです。
さらに問題は、中央の命に背いた関東軍作戦参謀を、その後も出世させたことです。彼らは、太平洋戦争の作戦を立てます。
大きな失敗をしたのに、戦術面で学ばず、組織人事面でもうやむやにしてしまったのです。
それができたのは、戦前の陸軍という、情報公開どころか報道すら制限された「閉ざされた組織」「閉ざされた時代」だったからでしょう。しかし、それなら、上司の責任はより重くなります。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、4

(仕事の進め方、上司への説明、責任)
昭和12年、支那事変勃発後の予算要求です。著者は、軍事課予算班長(注:予算担当課長補佐でしょうか)になったばかりです。
・・既に廟議は一応不拡大方針を一擲してしまったが、なお果たしてどれだけの規模においてこの事変を遂行していくべきやということについては、陸軍部内においても何ら決定されていなかった。
私は参謀本部の堀場少佐と相談して、使用兵力の枠を大体15個師団と概定し、これから所要経費を大体私自身誰にも相談せずいろいろ大当たりをしてみて、3月末まで19億円を概算した。当時の陸軍予算の年額はせいぜい10億円前後であったから、当時としては一躍3倍になることであった。それでこれを極めて素人わかりするように両面罫紙1枚に図解したものをつくり、私はまず当時の整備局の資材班長真田穣一郎少佐のところへ持っていって相談した。真田少佐はニヤニヤ笑いながら「これだけとれれば結構ですがねえ」と―あまり桁外れなので問題にしないようであった・・
そこでこの案をつくって上司に意見を具申した。上の方は結局この通りに採用した。詳しい説明をしてもわからず、後宮軍務局長のごときは、右の両面罫紙の図解が一番いいと言って、大臣、その他内閣へもこの紙切れをもって説明していた。結局、この案で支那事変の本格的経費ができあがった、軍需動員もいよいよ大規模に発足することになった・・
・・この予算を、いよいよ本式に大蔵省に提出する前の晩は、一晩中眠られず床の中で考え明かした。いろいろの議論はあるが、この予算が通過すればいよいよ本格的に国内での仕事が始まる。いよいよ、財政も経済も戦時的に変貌していくのである・・上司は全面的にこれに同意している。しかしその内容もよくわからず、またあまりわかろうともしない。自分の責任は重大である。一応大臣の決裁まですんだものの、私はかれこれとその重大さを考えて、少なくとも今後は事、予算に関する限り、またこの守成というか台所の仕事については、自分が全責任を痛感して所信に邁進せねばならない。上司をいたずらに頼っていてはならない、と深く決心した・・(p110)
まだまだ興味深い記述がありますが、それは本を読んでください。当時の陸軍用語がでてきて、若い人たちにはわかりにくい言葉もあります。例えば、天保銭(陸大卒業組)、無天(それ以外)、連帯(協議という意味でしょうか)。