カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」第128回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第128回「政治・社会参加で「つながり」を得る」が、発行されました。
社会の不安をどのようにしたら解消できるのか、私たちと行政は何をしたらよいのかを考えています。政治参加と社会参加の重要性を述べてきました。今回は、その背景と理由について説明します。

これからの行政を考え、安心社会をつくるという議論の中で、なぜ社会参加を考えなければならないのでしょうか。
それは、成熟国家になった日本で国民が抱えている不安は、これまでの政府活動の延長では解決できないからです。すなわち、国民の不安である格差と孤立を生んでいるのは、行政サービスの不足ではなく、社会の在り方、私たちの暮らし方、通念だと考えるからです。そして、この課題を解くカギが社会参加ではないかと考えています。

かつての日本社会の仕組みや国民の通念は、農村社会や発展途上時代には適合し、成功を導きました。しかし成熟社会になってからは、私たちの暮らし方とずれが生じ、それが種々の問題を生んでいるように見えます。
かつての「ムラ社会」では、人々は家族、親族、地域、職場といった場所でいや応なしにこの線に絡め取られました。ところが法制や社会の変化、経済成長のおかげで、これらの束縛から解放され、自由に生きることができるようになりました。しかし「つながりはなければ良い」というものではなかったのです。自由になった個人は改めて他者とのつながりをつくり、「ムラ社会での安心」から「他者と共存する信頼づくり」へ、「与えられた付き合い」から「自分でつくる付き合い」へ変えていかなければならないのです。

連載「公共を創る」執筆状況

恒例の、連載原稿執筆状況報告です。
第130回(9月29日掲載予定)の原稿を書き上げ、右筆にズタズタにされて、編集長に提出しました。これで、8月締めきり分の原稿を、遅れずに提出することができました。問題は、その先です。

第4章「政府の役割再考」2「社会と政府」は当初、(1)「社会を支える民間」、(2)「政府の社会への介入」、(3)「政府の役割の再定義」で構成して、その次に3「近代憲法構造の次に」で締めようと考えていました。
ところが、(2)「政府の社会への介入」が思いのほか長くなったので、いったん切ることにしました。そして(2)の後半に予定していた内容を、(3)「社会をよくする手法」と独立させることにしました。

で、次の原稿は、その中の構成を考えなければなりません。いくつか素材は集めてあるのですが、それらを並び替えるとともに、全体を調整しなければなりません。これは結構大仕事で、重要なのです。先日から着手しているのですが、他の原稿も抱えていて、進みません。

また、その後の構成を、3「政府の役割の再定義」、4「社会は創るもの」に変更することにしました。まあ、書いて行くうちに変わることもありますが。

連載「公共を創る」第127回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第127回「政治・社会参加の重要性」が、発行されました。
前回に引き続き、税金に関心を持ってもらう話を続けます。イタリアでは個人所得税の千分の8を宗教団体に、5を非営利団体に、2を政党などに納めることができます。スウェーデンでは、毎年の年金納付額が所得の一定割合に固定され、それが積み重なって本人の年金受給権が増えていくことを確認できます。

なぜ、このような政治参加や社会参加、そしてその国民の意識を議論するのか。それは、現在の日本社会の不安は、社会の仕組みと国民の暮らし方や意識によって生じているからです。そして、政府、行政による公共サービス提供では、解決しないのです。

ところで、政治学と行政学は政府の役割について、経済学と財政学は市場の役割と政府の関与について大きな蓄積があるのですが、社会については、社会学が分析はするのですが、どのように改善すべきか、政府や私たちはどのように変えるべきかの議論はあまりしません。
社会学は、哲学のような深遠な議論をするものから、格差や孤独なの身近にある具体問題を扱うものまで、様々なものを含んでいます。その全体像を系統的・分類的に示すことは難しいでしょう。私が期待するのは、社会学のうち「実用の学」と思われるものを集めて、分類し、それらを全体的に議論することです。政治学、経済学(の一部)が「実用の学」であると同様に、社会学にもそれを期待したいのです。「公共社会学」という学問分野の考え方もあるようです。それが発展することを期待します。

連載「公共を創る」第126回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第126回「政治・社会参加を促す具体策」が、発行されました。社会参加の意識を議論しています。政策として本格的には取り組まれていないのですが、今回は、いくつか特徴的な動きを紹介します。

学校の部活動を教員に指導させるのではなく、民間に委ねようとする動きがあります。ドイツでは、学校の部活動がなく、地域のスポーツクラブが引き受けています。
裁判員制度は、国民に政治参加を促す方法の一つです。日本では選挙の投票に行くか行かないかは、本人に委ねられていますが、義務にしている国もあります。政治教育の一環とも考えられています。

日本では勤め人は、所得税の計算と納税を会社がやってくれます。計算書はもらいますが、関心は少ないでしょう。税金の天引きは多くの国がやっているのですが、年末調整は本人が税務署に申告する国が多いようです。そこで、自分の納税額とその計算に関心を持つのです。

連載「公共を創る」第125回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第125回「社会参加政策のあり方―スウェーデンとドイツ」が、発行されました。社会参加の意識を議論しています。

前号で紹介したスウェーデンの政治教育のために、若者・市民社会庁が作った副教材「政治について話そう!」には、学校において中立を保ちながら政治を教えるためにはどうしたらよいか、どうしたら騒動を起こさずに安全な討論会を実施できるかといった実践的な事項も書かれています。「学校は価値中立にはなり得ない」こと、すなわち社会の中にある多様な価値観をすべて公平に扱うことはできないと断言しています。翻って日本の状況を考えてみると、学校だけでなく、家庭などでも政治の話、特に意見対立がある争点については触れないようにすることが多いようです。

同国には若者を社会参加に誘う場として、若者団体のほかに「ユースセンター」「若者の家」という余暇活動施設があります。中学・高校生世代が誰でも自由に出入りできます。そこは、学校でも家庭でもない「第三の居場所」として機能しています。

スウェーデンで積極的な若者政策が国政において取られ、発展してきたのは、ここ30年のことです。経済成長を遂げて成熟社会の段階に入った頃から、人生の選択肢が増え、「良く生きる」ことが単純明快なものでなくなりました。かつては多くの人にとって「家庭→学校→就職→家庭を持つ」という単線的だった人生が、そうではなくなったのです。このことから生じる人生への不安や悩みが、学校から社会に出ようとして選択しなければならない立場にある若者に集中するようになりました。

1981年の政府報告書は「若者が、商品やサービスの消費者になっているだけでなく、自分自身の人生においても『消費者』になってしまい、結果として自身の人生を自分で決めることができなくなっている」と述べています。そこから、社会の発展に必要な彼らを、社会と政治に参加するようにさせることに踏み出したのです。