カテゴリー別アーカイブ: 歴史

古関メロディー

2020年春から、NHK連続テレビ小説で、作曲家の古関裕而さんが主人公の番組が放送されます。
古関さんは福島市出身で、地元では大いに盛り上がっています。地元新聞社の福島民報社の企画「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」で、全国投票によりベスト30が決まりました。「高原列車は行く」が一位です。若い人は、知らない曲でしょうかね。

30のリストを見ると、有名な曲がたくさん並んでいます。
例えば、甲子園野球の「栄冠は君に輝く」や早稲田大の応援歌「紺碧の空」は、皆さんご存じでしょう。面白いのは、阪神タイガースの「六甲おろし」と読売ジャイアンツの「闘魂込めて」という、敵同士の曲です。
軍歌「ラバウル海軍航空隊」は私の好きな歌で、元気をもらっています。「暁に祈る」や「若鷲の歌」は、私以上の年代の人は歌えるでしょう。他にもたくさん。

最近の曲と違い前奏が長いので、前奏を聴くとわかる曲が多いです。六甲おろしにしても、暁に祈るにしても、前奏だけで1番分の長さがあります。
いずれも、元気が出る曲です。戦時中、戦後の日本が元気だったころが、時代背景にあるようです。
それにしても、すごい人だったのですね。

小此木政夫・教授、韓国併合

小此木政夫・慶應大学名誉教授、日韓歴史共同研究」の続きです。ウエッブ「論座」「韓国併合は「植民地化」でなく「同化」だった」から。

・・・まず、1910年から1945年まで朝鮮半島が日本によって植民地化されたという、歴史教科書でも定着している表現について、「『植民地化』という表現は決して正確ではない。韓国を『併合』することであり他民族の『同化』でした。だからこそ、日本への反発がずっと続くことになったのです」と語る。

「日本に併合された後に、朝鮮民族が自我(アイデンティティー)を失っていく過程が続くわけです。あれが併合条約でなくて保護条約の段階でとどまっていれば、ずいぶん違っていただろうと思いました。保護条約というのは、外交権を奪って保護国化するわけですから、歴史的に見れば中国が朝鮮に対してやっていたことと変わらない。それを日本が代わってやるようなものだった。東洋的な宗主権でした。

しかし、併合というのは中国さえしたことがない。併合は同化政策だから植民地化政策とは根本的に違います。英国が香港にしたような植民地化ではないのです。香港は99年間の租借でした。例が適当かどうか分かりませんが、日本の戦国時代に尾張の国が美濃との戦に勝って、美濃を丸ごと尾張にしてしまうようなものです。日本人の感覚としては、そうだったのではないでしょうか?」

「同化」を強いたことと、その後の反発は、必然的な結びつきがあるとも言う。
「完全に同化されれば、内地と全く一緒になるわけですから平等が保障されるでしょう。差別などしていないという議論にもなりうるわけです。しかし、同化のプロセス(過程)というのは朝鮮人がアイデンティティーを失う過程です。だから独立すれば、アイデンティティーを回復しなければいけない。そのためには、日本的なものを排斥していくのが当然に必要な作業です。その作業から出発するのです。

それだけで全部を説明することはできませんが、日本的なものがなぜこれほど韓国で排斥されるかというかなりの部分が、アイデンティティーの問題として説明できるのではないでしょうか。だから、韓国人が日本から独立して両国関係を正常化した後になっても、なおかつ現代史を語る時、自分たちのアイデンティティー、自画像を守ろうとするわけです。もちろん、日本人も自らの自画像を語る。その結果、戦後70年の首相談話などの節目節目で、日韓のアイデンティティーが衝突することになるのです」・・・

小此木政夫・慶應大学名誉教授、日韓歴史共同研究

朝日新聞のウエッブ「論座」。1月26日の「小此木政夫さんに聞く朝鮮と日本の過去・未来」(3)「韓国併合は「植民地化」でなく「同化」だった」から。

・・・初の日韓歴史共同研究が2002年5月にスタートした。座長は三谷太一郎・東京大学名誉教授。幹事を小此木政夫・慶応大学名誉教授(74)が引き受けた。古代史、中近世史、近現代史の3つの分科会を設け、日韓合わせて20余人の学者が参加した。
3年後に研究結果を「最終報告書」にまとめ、両政府に提出して解散するが、活動が途切れず結果を出すまで続いたのは、当時、日韓両国の現場で取材していた筆者にとって奇跡に近かった。
歴史にまつわるこの種の「共同作業」は、玄関口で平行線をたどり、途中の論争で互いに譲らず、結局、空中分解するという例を何度も見て来たからだ。
なぜ「完走」できたのか。小此木さんを中心に、裏側で周到な準備、心構え、あるいは予防線と言ってもいい、様々な仕掛けがあったのを知ったのは、相当後のことだ・・・

・・・幹事の小此木さんは、めざす目標について明確にしようとした。
「あまり初めから大きな目標を立てるのはやめましょう。日韓の歴史認識を一致させるなどということは不可能なのです。我々の仕事は、日本と韓国の歴史認識のどこが一致してどこが違うのか、これを明らかにする作業ではないでしょうか」・・・

・・・「一つの結論を求めて論争するよりも、相違点を明らかにすれば次(第2期以降)につながるのではないか、と思いました。この共同研究では分厚い報告書ができましたが、読んでいただければ全体の構成にもそれが表れていると思います」・・・

・・・「初回の研究会から論争になったのは、やはり韓国併合条約(1910年)の問題、不法・不当論についてでした。韓国の学者は、条約原文の印鑑がどうだとか、なぜ不当で不法、無効な条約なのかと熱心に論ずるわけです。こちらとしては、国際法の専門家が、国際法的な議論はこうですと説明するわけですが。私としては、我々の意見が一致したからと言って、どうなるという問題ではない。あくまで学者の議論としてやろうと言い続けました。

でもとにかく、併合問題の比重が、予想以上にありました。韓国を知っているつもりだった私にとっても新鮮な驚きでした。まるで韓国併合にしか関心がないかのように議論していました。それは今、日韓間で議論されていることと同様でもあります。

つまり、日本側と韓国側の一番大きな対立点は、そこのところにあります。したがって、韓国保護条約(1905年、乙巳条約)から併合条約が締結される過程を日韓基本条約で「もはや無効」と表現したことが、彼らにとって耐えがたいのでしょう。
確かに「もはや」は妥協の産物でしたが、我々が理解しがたいほど、それに執着した。いろいろな解釈があると思いますが、私はその時、『これはアイデンティティーの衝突なのだ』と思いました」・・・
この項続く

日本の地政学的グランドデザイン

2月4日の朝日新聞オピニオン欄、出口治明・立命館アジア太平洋大学学長のインタビュー「日米安保改定はや60年」が、簡潔でわかりやすいです。
・・・日米安全保障条約が改定され60年、人間でいえば還暦を迎えた。最初の30年が冷戦下。次の30年は旧ソ連という対抗軸がなくなった一方、経済力軍事力を強化した中国が台頭してきた。さて、これからの30年の見取り図はどうなるか。60年の評価と、押さえておくべき論点は何か・・・

出口さんは、次のように整理します。
1 黒船来航と明治国家
老中阿部正弘が、アヘン戦争などを研究し、彼我の軍事力や経済力の違いを認識していました。そして、開国して、国民国家を作り、富国強兵を断行するというグランドデザインを描きます。維新の後は、大久保利通が、阿部のグランドデザインである開国・富国・強兵を採用して、日本の近代化を進めます。

2 敗戦後
吉田茂が、もう一度、開国・富国・強兵を並べて、考えます。そして、強兵を安保条約でアメリカに代替させて、開国・富国で日本の再建を目指します。

3 これから
安全保障を考える際、自分で防衛力を強化するか、どこかと軍事同盟を結ぶか、基本はこの二つしかありません。同盟相手は、日本より経済力が大きい国でないと無理。すると、アメリカ、中国、ヨーロッパ連合EUしかない。EUは遠すぎる。中国を選ぶという選択肢もありますが、これまでの経緯を考えて、疑問符がつきます。消去法で、日米同盟を大事にしていくしかない。

途中に、戦後の日本とアメリカとの関係を、次のように書いておられます。
・・・戦後の日本は、米国というお父さんのスネをかじり尽くした息子で、鉄鋼、自動車、半導体と米国の主要産業を全部潰して成長してきたようなものです。普通の国だったらボコボコにされるところが、ボコぐらいで米国は済ませてくれました・・・
ご指摘の通りですが、鉄鋼の前に、テレビなど電機製品もあります。その前には、繊維もありました。

聖徳太子の絵姿

日経新聞朝刊文化欄の「美の十選」、ある主題で専門家が選んだ古今東西の美術品を10点見せてくれます。「へえ、こんな視点があるのだ」と、楽しみにしています。
今回は、八條忠基・綺陽装束研究所主宰の「装いがまとう意」です。

1月22日は「聖徳太子及び二王子像(唐本御影)」でした。皆さんご存じの、聖徳太子の絵です。読んでもらうとわかりますが、聖徳太子の姿とは、全く違うようです。
太子が被っている冠が黒い「漆紗冠」になったのは、682年。手に持つ笏は719年からです。聖徳太子が亡くなったのは622年です!
また、平安時代後期に、「唐の人が描いた」といわれていたとのこと。
ええ加減なものですね。まあ、そもそも太子は、生前には「聖徳太子」とは呼ばれていなかったようですし。

聖徳太子が生まれたとされる橘寺は、わが家の近くでした。飛鳥川をはさんだ隣の集落です。お寺の庭で、遊びました。