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外交官 杉原千畝 命のビザ 続編

昨年12月に、あいおいニッセイ同和損保が、10周年記念事業として「外交官 杉原千畝 命のビザ」の動画を配信していることを紹介しました。その企画は終わったのですが、好評につき、続編を提供しています。「外交官 杉原千畝 命のビザ 続編

今回は、杉原さんの足跡を取り上げるとともに、日本全国にある杉原さんゆかりの地を訪ね、史跡や関連施設を紹介します。前回の動画も要約版(12分)で見ることができます。
第1回目は福井県「人道の港 敦賀ムゼウム」です。

建て替えられる建物

42年半の公務員生活で、いくつもの職場で働きました。先日、どこで働いたか思い出していて、気がついたのですが。それらの建物が壊されて、新しくなっています。
戦前の建物が古くなり、狭くなったので建て替えたもの、再開発で壊されたものなどです。そのような時代だったのですね。
地域と、勤めた順に見ていきます。同じ組織に2度以上勤めた場合は、最初の勤務を出します(と、去年11月ごろに書いて、放置してありました)。

(地方自治体)
昭和53年、徳島県庁。その後、隣に新築移転。旧県庁は移築されて、文書館になっています。
昭和58年、鹿児島県庁。その後、新築移転。旧県庁は、正面部分が県政記念館として保存されています。
平成6年、富山県庁。健在。
三つの県庁とも戦前に建てられ、内務省が造ったので、同じような形になっていたようです。旧山形県庁が、それを保存しています。

(霞が関)
昭和55年、自治省。旧内務省ビル。その後取り壊され、第2合同庁舎になっています。
平成10年、内閣・省庁改革本部。民間のビルに入っていました。最初に入った溜池の雑居ビルも、次に移った虎ノ門の第10森ビルも壊されて、再開発されました。
平成13年、総務省。新築された建物に入居しました。健在。
平成18年、内閣府・内閣官房。第4合同庁舎。耐震補強がされ、健在。
平成20年、総理官邸。平成14年に新築されたばかりでした。健在。
平成23年、被災者支援本部。内閣府別館。取り壊され、現在は第8合同庁舎が建っています。
平成23年、復興本部のち復興庁。三会堂ビル。健在。
平成28年、復興庁。第4合同庁舎。健在。

(出先)
昭和63年、自治大学校、広尾(有栖川公園の隣)。その後、立川に移転。旧校舎は売却され、高齢者施設になっています。
平成21年、消防大学校、三鷹。平成13年に改築されたもの。健在。
平成22年、自治大学校、立川。平成15年にこの地に移転新築され健在。
この項続く

戦後民主主義の罪、4

戦後民主主義の罪、3」の続きです。

3 憲法の神格化
もう一つ加えておきましょう。憲法の神格化です。「憲法を守れ」という主張は、憲法を神棚に祀る神様にしてしまいました。ここには、いくつかの問題が含まれています。
(1)棚ぼた
一つは、自分たちでつくったものではない、そして自分たちで努力しないということです。
憲法は、国民が勝ち取ったものではなく、占領軍に与えられたものです。出自がなんであれ、良いものを取り入れることは良いことです。ただし、努力せずに手に入れたので、民主主義は努力しなくてもできると思ってしまいました。「棚ぼた」は、努力の必要性を忘れさせる副作用がありました。平和主義を唱えつつ、その努力はしないことも、ここにつながります。

(2)変えない
それは、今あるものを守るという思想につながりました。新しい課題があっても、それに取り組まないのです。その思想は、憲法を不磨の大典にしてしまいました。成文憲法では、日本国憲法が最古になっています。制定は最古ではないのですが、条文が変わっていない点では世界で最も古いのです。

(3)西欧が基準
憲法を与えてくれたのは西欧であり、ものごとの基準は西欧だという意識です。これは、戦後民主主義だけの罪ではありませんが、戦後民主主義が助長した面もあります。その背景に、明治以来、西欧をお手本にして追いつこうとした「この国のかたち」があります。
革新勢力と呼ばれた人たちは、「進歩的文化人」とも重なっていました。かれらは、欧米に留学し、その輸入に努めました。後進国日本を、先進国に引き上げました。その功績は大きいです。しかし、追いついた後も、その考え方を変えることができませんでした。
西欧を向いていることは、国内の問題を拾い上げないことにつながります。学者は西欧に留学します。しかし、国内の問題には取り組みません。憲法学者は、ハンセン病患者への差別を拾い上げませんでした。参考「憲法を機能させる、その2

(4)国民は客体
「憲法を守れ」という主張は、国民が憲法を作りかえていくことを阻害します。国民は、憲法を作る主体ではなく、憲法に守られる客体になります。
また、政府と国民を、対立する関係にとらえます。政府の間違いを批判するのは良いことですが、批判だけでは、自分たちが主権者であることを忘れてしまいます。

4 「革新勢力」の罪
戦後民主主義を唱え、擁護した人や勢力の問題は、戦後民主主義が定着した後に、次なる課題に取り組まなかったことです。
新憲法が定着し、戦前に戻らなかったことは、大きな成果です。しかし、新憲法が定着した後も、「憲法を守れ」と言い続けたことで、「保守勢力」になってしまったのです。そして、ここに述べたような問題に、頬被りしてしまったのです。社会の課題を切り拓く革新勢力にならず、国民からも支持を失ったのです。
たぶん1960年代半ば、遅くとも1970年には、新しい方向に転換すべきだったのでしょう。それは、1960年安保闘争と1970年の安保闘争との違い、国民の参加と関心度に表れています。
これを乗り越えるには、「輸入業」から自分で考える研究者になること、西欧の言論より日本の課題に取り組むことでしょう。批判と反対だけでなく、改革案を提示することでしょう。
厳しいことを書きましたが、民主主義が日本に定着したことを高く評価しつつ、次なる発展への課題を整理しました。これは、戦後民主主義や革新勢力だけの責任ではありません。

戦後民主主義の罪、3

戦後民主主義の罪、2」の続きです。2つ目は、建て前と本音の使い分けです。

2 建て前と本音の使い分け
憲法に書かれたことを理想と掲げつつも、実生活では違ったことをしています。そして、それを変だと思いませんでした。
例えば男女同権は、日本型雇用慣行ではまったく適用されませんでした。女性社員は男性社員の補助として扱われ、結婚したら退社を余儀なくされました。女性議員や女性管理職の少なさは、世界でも突出しています。
結婚は両性の同意に基づくといいつつ、親が決めたり、親が反対することも続きました。

日本では、憲法という建前の世界と、世間という本音・実態の世間の2つがあります。世間とは、日本社会の集団主義であり、個人を縛る力です。前者は、個人が主体で、権利と義務があり、もめるときは法律で決め、裁判で決着をつけます。後者は、個人より先に世間があり、法律ではなく世間常識が規則です。もめたときは、裁判ではなく、お詫びで片をつけます。
会社でも社会でも、「世間の常識」に従うことが要請され、時に強要されます。「空気を読め」とです。それに反する行動をした場合は、「世間をお騒がせしました」と謝罪を要求されます。
新型コロナウイルス感染症拡大の際に、外出や会合そして会食の制限が私権の制限であるにもかかわらず、法律ではなく自粛要請で行われます。そして自粛要請に従わない店や利用者を「取り締まる」のは、警察ではなく、匿名の個人の批判なのです。公務員が自粛要請に反し、夜遅くまで大勢で会食をした際におとがめを受けるのは、コロナ特措法違反ではなく、信用失墜行為としてです。

「変な平等主義」も、この延長にあります。平等が主張されます。それはもっともなことです。ところが憲法が定めた平等は、法の下の平等扱いであって、現実には各人は平等ではありません。身長、体重、運動能力、性格、趣味などなど、人は平等ではありません。「順位を付けない運動会」は、「変な平等主義」の表れでしょう。
目立つ人をやっかみます。エリートの存在を許さず、足を引っ張ります。しかし、そのような人たちがいないと、社会がうまく回らないことも事実です。エリートの存在を許さないのに、彼らが職責を果たしていないと批判します。官僚批判には、このような面があります。
この項続く

戦後民主主義の罪、2

戦後民主主義の罪」の続きです。もたらした罪はいくつかありますが、大きく括ると「利己主義」「建て前と本音の使い分け」と「憲法の神格化」に、まとめることができるでしょう。
「利己主義」「建て前と本音の使い分け」は、戦後の発展に寄与しました。しかし、それもいくつかの面で限界に達しました。それが露呈したことで、「戦後民主主義」の限界が見え、評価が下がったのだと思います。

1 利己主義
新憲法が個人の尊重を定めたことにより、各自が自由に生きることができるようになりました。戦前の全体主義や、封建的な束縛(ムラやイエ)から、解き放されました。各人が努力すれば豊かになれるという、経済成長期の時代背景もこれを促進しました。
他方で、自分と家族を優先する思想と行動は、「マイホーム主義」と呼ばれました。それは、社会への貢献を重視しません。

それは、「平和主義」にも現れました。平和を唱えますが、国際貢献はしません。積極的に平和を作るのではなく、他国に守ってもらうのです。そのような中で、物を世界に売りまくるので、エコノミックアニマルとも揶揄されました。
この「ただ乗り」が露呈したのが、1991年の湾岸戦争です。石油を運ぶタンカーを中東の交戦区域に送るのに、支援物資を運ぶ船は危険だと言って行かないのです。これは、戦後日本の最大の恥辱だと思います。

私権の制限が進まないことなども、ここに原因があるでしょう。コロナウイルス感染拡大防止のための行動制限が、各国では法律で行われるのに、日本では自粛要請で行われます。国民に番号を振って、行政手続きを効率化することも、税金の手続きを簡素化することも、進みません。

かつて紹介した「橋の哲学」もそうです。美濃部都知事が、反対意見のある公共事業を中止する際に、「1人でも反対があれば橋は架けない」という言葉を引用しました。この言葉はフランツ・ファノンの言葉だそうですが、この言葉の続きにある「その代わり川を歩いてる」といった趣旨の部分を省略してあります。このような発言が、支持されるのです。
この項続く