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生き様-生き方

鎌田浩毅先生『座右の古典』

鎌田浩毅先生の『座右の古典』(2010年、東洋経済新報社)が、文庫本(2018年、ちくま文庫)になりました。

論語、チャーチル「第2次大戦回顧録」、九鬼周造「いきの構造」など、50冊の古典が、次の8つの分野に分けて紹介されています。
私たちはどう生きるか、私たちは何者か、君たちはどう学ぶか、発想法を転換せよ、人間関係のキモ、情熱・ときめき・モチベーション、リーダーの条件、読書が変える人生。

皆さんが「名前は聞いたことがある」という、古典が並んでいます。しかし、たぶんこのほとんどを、読んだことはないでしょう。私もそうです。
この本は、それぞれの古典の概要、社会に与えた影響などが、簡潔にまとめられています。優れた読書案内です。古典そのものに挑戦することも良いことですが、その本か描かれた背景やその本が社会に与えた影響などを知らずに読むと、苦労します。

しかも、何人かの専門家が分担執筆したのではなく、先生が一人で書かれたのです。
それにしても、鎌田先生がこれだけの読書家だとは。改めて、尊敬します。しかも、先生は理科系の研究者で、社会科学や人文科学の専門家ではないのです。
先生が、時間とお金と脳みそを費やして読まれた成果を、840円の文庫本で読むことができるのです。ありがたいことです。
この本を読んで、原本に当たろうという人や、かつて途中で投げ出したけれど再度挑戦しようという人も、出てくるでしょうね。

スマートでないスマートフォン

スマートフォンって、スマートと名前がついているのに、使っている人にはスマートでない人が多いです。歩きながら操作している人や、電車中で操作している人です。この話題は何度も書いていますが、最近も嫌な思いをしたので。

1 画面に集中することで、周囲への気配りがおろそかになっています。
通路の真ん中に立っていて、周りの人の邪魔になっている人。電車の扉付近に仁王立ちして、通行の邪魔になっている人。
特に、イヤホンやヘッドホンをしている人が困ります。自分の世界に没頭しています。「通してください」と言っても、聞こえていないようです。

先日は、扉が開くと同時に乗ってきて、空いている席に突進し、操作を続けた人がいました。後から、高齢者や子供連れが、乗ってきました。全く素知らぬ風で(実際、気がついていないのでしょう)、操作に集中していました。

2 公衆の面前でゲームをしたり、つまらない画面を見るのは、恥ずかしいと思いましょう。朝の出勤時、きちっとした身なりの会社員が、ゲームに熱中している姿を見ると、と心配します。勉強の本を読んでいる人なら、「感心、感心」と思うのですが。

「私の勝手でしょ」と言えば、それまでですが。あなたが、パートナーとして選ぶ際に、また一緒に仕事をしたい人を選ぶ際に、そんな人を優先しますか。
人前での立ち居振る舞いは、あなたをきれいに見せたり、下品に見せたりします。自分を安く見せることは、やめましょう。
趣味や娯楽は、自宅など他人が見ていない場所で、乗り物なら指定席でやってください。
この項続く

神野直彦先生の人生と思想

神野直彦著『経済学は悲しみを分かち合うために』(2018年、岩波書店)をお勧めします。先生から贈っていただいて、読み終えたのですが、このホームページで紹介するのが遅れました。
先生には、地方分権改革、特に税源移譲の際に、お教えを乞いました。その後、親しくしていただいています。

この本は、先生の自叙伝です。特に、先生がどのようにして財政学を志したか、そしてどのような財政学を目指したかが、書かれています。
経済学、特に財政学が客観的な分析の学ではなく、人の生活と切り離すことができないことが、よくわかります。人間を幸福にする経済であり、そのための学問であると、喝破されます。
既存の財政学・経済学とは違った学説を掲げられ、ご自身でおっしゃっているように、批判を受けられました。しかし、既存の経済学が数字や理論に走り、何のための経済学かを忘れたように、私にも思えます。

そのような部分を詳しくする、算式を詳しくするのではなく、先生は、財政学がどのようなものかについて、新しい枠組みを提示されます。すなわち、財政を、経済システム、政治システム、社会システムという三つのサブ・システムの結節点ととらえます。
私は、公共政策論で、官共私の3元論を唱えていますが、我が意を強くして、授業や著作では先生の財政学を引用しています。

先生の必ずしも順風でない人生も、語られています。回り道をされた学者人生。網膜剥離による視力の減退、これは資料を読む学者にとっては、致命的なことです。それを乗り越えられた苦労。そして、奥様への並外れた愛情(ここは私も負けました)。この項続く

あきらめの儀式

習い事が成就しなくても無駄ではない」の続きです。
穂村さんは、続けて恋愛というより、失恋についても書いています。

・・・恋愛に燃え上がっている友達にはどんなアドレスをしても無駄、と経験的にわかっている。もう可能性がないことが周囲の誰の目にも明らかでも、本人は決して撤退しない。
あれは一縷の望みに賭けるというよりも、むしろ完全に駄目だということを確認するための行為なんじゃないか。その儀式が済むまでは「もしかしたら」という思いを消し去って前に進むことができないのだ・・・

これも名言ですね。
うまくいかないことが見えた時、どこで撤退するか。思いを断ち切る儀式は、重要だと思います。ウジウジと引きずらないためにです。

個人にとってはそうですが、組織の場合は、そのような感情の処理に時間と費用をかけず、サッサと撤退しなければなりません。
そこが難しいのですよね。創業者が苦労した事業だ、従業員が苦労した事業だ・・・と。損切りは、なかなかできません。情に対して、理や利をどのように納得してもらうか。「あいつは冷たい奴だ」と言われても。

少し脱線します。
昭和20年春、日本の敗戦が確定的になったときに、戦艦大和が沖縄に向けて出撃します。航空機の援護なしですから、途中でアメリカ軍の餌食になり、無駄になることはわかっています。
第二艦隊の伊藤整一司令長官は、無謀な作戦に抵抗します。しかし、連合艦隊の草鹿龍之介参謀長の「一億総特攻の魁となって頂きたい」との説得で、出撃に同意します。草鹿参謀長は、伊藤長官の後輩でした。理ではなく、情で納得するのです。
その結果、大和とともに約3千人の将兵が戦死します。伊藤長官は、出撃の前に、将来ある見習士官たちを下船させました。

習い事が成就しなくても無駄ではない

7月4日の読売新聞夕刊、穂村弘さんの「蛸足ノート」は「無駄じゃないあきらめの儀式」から。

・・・私が子供の頃は、学習塾に行っている友達はまだ少なかった。放課後は原っぱや空き地に集まって遊んでいた時代である。ただ、習い事に通っている子はけっこういた。書道、ソロバン、英会話、スイミング、ピアノ、絵画、日本舞踊などである。
私も書道と英会話とピアノ、それに絵画を同時期にではないが習っていた・・・
・・・結果的に、私は親の期待をすべて裏切ることになってしまった・・・

・・・でも、無駄とは思っていない。何故なら、それぞれの方面において自分には才能がないことを確認できたからだ。何もやっていなかったら、もしかしたら自分にはピアノの才能があったのでは、などと後になって考えてしまった可能性がある。子供の頃に習わせてもらえなかったから開花しなかっただけなんじゃないか、と・・・

はい、私の経験を基にしても、納得します。多くの人にも、思い当たることがあるでしょう。
エジソンは、「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ」と言ったそうです。もちろん、1万1番目に、良い方法を見つけたから言えるのですよね。
この項続く。「あきらめの儀式