岡本全勝 のすべての投稿

被災者支援本部ホームページ

被災者支援本部のホームページに、英語のページを作ってもらいました。被害は大きかったけれど、着実に復旧していることを、知ってもらうためです。
また、東北3県の避難所の地域別分析をしました。便宜的に、「沿岸部で避難所が10か所以上所在する市町村」と「それ以外の市町村」に分けました。資料の6ページ以降に、地図をつけてあります。やはり、沿岸部で避難所が多い市町村が、被害が大きく(電気ガスなどが復旧せず)、困難な状態にあることがわかりました。

今日の失敗・あいさつ

今朝出勤して、内閣府の建物に入り、階段を下りていました。すると、掃除をしているおじさんが、手を止めて、「おはようございます」と挨拶をしてくれました。いつもは、私から声をかけるのですが、今日は考え事をしながら歩いていたので、こちらから声をかけるのを忘れたのです。毎朝、私から声をかけるので、向こうも覚えていてくれたのでしょう。でも、先に声をかけられたのは、不覚でした。
明るい係長講座」にも書きましたが、かつて仕えた大臣や知事さんから、挨拶の大切さを学びました。富山県庁で、守衛さんや掃除をしてくれている人たちに、挨拶とお礼を言ったら喜んでもらえたので、その後は、職場で誰彼なしに、挨拶するようになりました。と言っても、「おはようございます」とか「ごくろうさま」「ありがとうございます」と、一言です。「変なおじさん」と、思われているのでしょうかねえ。
先日、初対面のある大臣警護官に挨拶したら、「かつて総理官邸前で警備していたら、当時の岡本総理秘書官に、『ごくろうさま』と声をかけてもらいました」と言われました。帽子をかぶっていたらから、私とわかったのでしょうか(笑い)。
総理官邸前では、たくさんの若い警官が警備で立っています。雨の日も寒い朝も。「ごくろうさま」と声をかけると、敬礼で返してくれます。今の仕事に就いてから、総理官邸に行くことも増えました。離れてから1年半経つのですが、官邸勤めの職員さんたちが覚えていてくれて、声をかけてくれます。ありがたいことです。

三陸の津波と宮城の津波

4月2日に陸前高田を視察した時に、津波被害地があまりに片付いていることに、驚きました。ほとんど何もなく、真っ平らなのです。市長さんにお聞きすると、「津波が引く時に、すべてを持っていった」とのことでした。23日24日に、宮城県と福島県を視察した時は、津波被害地域は、がれきが一杯残っていました。市町長さんに「津波は、がれきを持っていかなかったのですか」とお聞きすると、「残していった」とのことでした。
同じ津波でも、違うものだなあと考えていたら、24日の読売新聞に、三陸と宮城の津波の違いが、図解付きで解説されていました。高さや進み方が違うのですね。でも、ともに、破壊力はすさまじいものです。

小西先生の新著

小西砂千夫先生が『市場と向き合う地方債-自由化と財政秩序維持のバランス』(2011年、有斐閣)を出版されました。あとがきには、次のように書かれています。
・・地方債の市場はどのように機能しているのか、そこでは完全情報は期待できるのか、市場の不安定性はどこから来ているのか、地方債の安全性を担保している原理は何か。これを丁寧に解きほぐしていく必要がある・・
地方債については、これまでは、実務家の書いた制度解説と少しの書物しかなかったので、貴重な本だと思います。

被災地視察

23日(土曜)24日(日曜)と、仙谷官房副長官のお供をして、宮城県気仙沼市、亘理町、山元町、福島県相馬市に、行ってきました。現地を見せてもらい、市町長さんたちの要望を聞き、当方の問題関心をお伝えすることが主な用務です。
これらの町は津波被害が大きく、がれき(災害廃棄物)がたくさん残っています。400トンのマグロ船が、陸に上がっていたり。町の100年分の廃棄物があるという町もありました。これは難物です。田んぼの中の大きながれき、例えば家の残骸とか自動車は片付けても、地中にガラス片や金属片が残っていて、田としては使えないところもあると、おっしゃっていました。
首長さんたちは、それぞれ実情にあった対策を、知恵を出しながら行っておられました。市町長さんが何に気を遣っておられるか、良くわかりました。失礼な言い方ですが、各首長さんの競い合いです。「つらいけど、いつまでも後ろ向きじゃ、復興しないから」と、おっしゃいます。「まずは、産業復興だ。それがないと、町の将来はない」とも。「今回津波が来た地域は公園にして、市街地は高台に上げるつもりだ」とか、どんどん絵を描いておられます。
私の関心の一つは、避難所の条件改善です。今回おじゃました各避難所は、市町職員や応援に来た自治体職員が、避難所住民代表らと良く連携を取って、運営しておられました。食事も、住民参加で調理しておられたり、自立に向けて踏み出しておられます。同じ市内でも、間仕切りのある体育館と、無い体育館がありました。「足らなかったら送りますよ」と聞いたら、「いいえ、間仕切りがあると疎遠になるので、皆さんが『要らない』と言うんです」という答でした。
物資は、ほぼ行き渡っています。「最初の頃は、物資が来なくて困った。そのうちに国が手配をしてくれて、食事や石油が届いた」と、お礼を言ってもらえました。人手が足りないという所もあったので、「避難所で元気な人を雇って、作業をしてもらう仕組みがあるので、それを使ってください」と、お願いしてきました。仮設住宅建設も着実に進み、旅館などへの一次的避難(ショートステイのようなもの)も、利用の準備が進んでいました。
避難所では「早く働きたい」という声、漁港では「早く漁に出たい」という声が大きかったです。そのお気持ちは、良くわかります。私たちも、同じ予算金額で、生活のための失業手当のようなお金を出すより、働いてもらって賃金を渡す方が、個々人の満足度は上がると考えています。そして、復旧復興につながる仕事をしてもらうと、「一石二鳥」以上の成果が出ます。
旧知の市長さんや副市長さんもおられ、ご活躍ぶりが良くわかりました。それぞれに、自宅を無くされたり、職員を失ったり、つらい目にあっておられます。帰りに、福島県庁に寄って、原発事故対策に当たっておられる内堀副知事や、避難所担当の杉浦課長さんに、お話を伺ってきました。ご苦労をされておられます。