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政治評論の役割、3

御厨貴著『馬場恒吾の面目』の続きです。もう一つ興味深かった指摘を紹介します。
・・『危機の20年』―これは高名な歴史学者E・H・カーによる戦間期20年を扱った名著の題名である。カーの命名の仕方にあやかれば、1931年の満州事変の勃発に始まり、1955年の55年体制の成立に至る四半世紀こそ、20世紀の日本にとって「戦争」による危機と変革の構造を含んだ一つの時代であった。
「危機の25年」―満州事変に始まり、5・15事件、2・26事件という国内騒乱を経験し、日中戦争そして日米戦争に突入する。敗戦の後はアメリカ軍による占領改革を経て、復興の最中に55年体制の成立を見る・・(p16)
なるほど、そうですね。私たちは、1945年(昭和20年)の敗戦で、日本の歴史を大きく区切ります。戦後改革で、日本の政治、経済と社会は、大きく変わりました。しかし、御厨先生が指摘されるように、日本の政治、日本人はどのように国の進むべき道を選んだかという視点からは、1945年で分けられるのではなく、戦前の政党政治が終わった1931年から、次に戦後の政党政治が安定した1955年までを一区切りとしてみることが重要です。目から鱗でした。
ある日を境に、前の時代(政治体制)が、次の時代に代わるわけではありません。前の時代が倒れた後に、新しい時代を作る過程・苦しみがあります。それは、明治維新も同じでした。江戸幕府が倒れてから、明治国家が軌道に乗るまで、結構な時間がかかっています。どの時点をもって軌道に乗ったかは意見が分かれるでしょうが、西南戦争までで10年、明治憲法までが23年です。
すると、第3の開国と呼ばれる、現在の改革はどうでしょうか。例えば、1991年バブル崩壊を起点とすると、それから既に23年が経ちます。政治改革、規制改革などが進行中です。この間の行政改革を、単にスリム化ではなく、行政のあり方、さらには国家のあり方の改革として、分析を試みたことがあります。行政改革の現在位置」(年報『公共政策学』第5号p37、2011年)。時間ができたら、じっくりと考えてみましょう。

全町避難の町長

1月22日の朝日新聞オピニオン欄に、福島県大熊町の渡辺利綱町長のインタビューが載っていました。
大熊町は、第一原発が立地し、約1万1千人の全町民が避難しています。町役場は、遠く離れた会津若松市内に移転しています。町内の中心部は、帰還困難区域と居住制限区域になっています(この資料のp19)。また、中間貯蔵施設の受け入れも、お願いしています。
・・地域の復興に30年はかかるでしょう。「もう3年たった」ではなく「まだ3年」です。日本人の平均寿命の80年からすれば短いスパンですよ。それでも昨年は株価の上昇や東京五輪招致の成功で世の中が沸き立っていたので、社会から置き去りにされているような焦燥感がありました。午前2時、3時に目が覚める日もあります。
事故直後に大熊町は40キロほど離れた田村市に避難させてもらい、体育館に寝泊まりしていました。子どもの避難先を決める臨時町議会を駐車場のバスの中で開きました。ある晩、夢の中にも事故の光景が出てきてね。パッと目が覚めて「悪い夢を見ちゃった。夢でよかった」と思ったら、横を見ると町議会議長が寝ていて、現実に引き戻されました。今でも悪い夢が続いているんじゃないか。そう思うときがあります・・
町長の苦悩を知ってもらうために、ぜひ、全文をお読みください。

施政方針演説

今日1月24日、国会が開会され、総理の施政方針演説がありました。復興については2番目の項目、1は「はじめに」ですから、実際には第一番目の項目「創造と可能性の地・東北」として取り上げられました。
・・「創造と可能性の地」。2020年には、新たな東北の姿を、世界に向けて発信しましょう。
福島沖で運転を始めた浮体式洋上風力発電。宮城の大規模ハウスで栽培された甘いイチゴ。震災で多くが失われた東北を、世界最先端の新しい技術が芽吹く「先駆けの地」としてまいります。
3月末までに、岩手と宮城でがれきの処理が終了します。作付けを再開した水田、水揚げに湧く漁港、家族の笑顔であふれる公営住宅。
1年半前、見通しすらなかった高台移転や災害公営住宅の建設は、6割を超える事業がスタートしました。来年3月までに、200地区に及ぶ高台移転と1万戸を超える住宅の工事が完了する見込みです。やれば、できる。「住まいの復興工程表」を着実に実行し、一日も早い住まいの再建を進めてまいります。
福島の皆さんにも一日も早く故郷に戻っていただきたい。除染や健康不安対策の強化に加え、使い勝手のよい交付金を新たに創設し、産業や生活インフラの再生を後押しします。新しい場所で生活を始める皆さんにも、十分な賠償を行い、コミュニティを支える拠点の整備を支援してまいります。
東京電力福島第一原発の廃炉・汚染水対策について万全を期すため、東京電力任せとすることなく、国も前面に立って、予防的・重層的な対策を進めてまいります。
力強いアーチ姿の永代橋。関東大震災から3年後、海外の最新工法を採り入れて建設されました。コストがかさむなどの反対を押し切って導入された、当時最先端の技術は、その後全国に広まり、日本の橋梁技術を大きく発展させました。
まもなく3度目の3月11日を迎えます。復興は、新たなものを創り出し、新たな可能性に挑戦するチャンスでもあります。日本ならできるはず。その確固たる自信を持って、「新たな創造と可能性の地」としての東北を、皆さん、共に創り上げようではありませんか・・

政治評論の役割、2

御厨先生の指摘を読んで、私は、アカデミズムとジャーナリズムの罪を考えました。もっとも、これは私のオリジナルではなく、多くの識者が指摘していることです。
これまで日本のアカデミズムは、海外の理想的な政治制度を紹介して、それを基準に日本の政治は遅れていると、国民を教育してきました。その際に、イギリスやフランス、アメリカでも、ここに至るまでにどのような経験と犠牲を払っているかを、捨象しています。そして、それらの国々でも、日々の政治の運用では、そんなに単線的にかつきれいに進んでいるのではないこと、利害対立が激しいことを教えません。
ジャーナリズムもまた、その理想を基準に、「日本の現実政治はダメだ」と批判します。それはある面必要です。しかし、「あれもダメ、これもダメ」と批判するだけでなく、「ここはダメだが、ここは良い」と指摘しないと、「全て悪い」では、改良と進歩がありません。また、理想に近づく道筋を指摘しないと、無責任です。
子育ても、部下職員の教育も同じでしょう。欠点をしかってばかりでは、子どもは育ちません。良いところを誉め、欠点は修正の方向を示す必要があるのです。
あわせて、政党の扱いが小さすぎると思います。日本は、議会制民主主義をとっているのですから、政党を通じて政策を実現するのが、正当な道です。すると、それぞれのテーマ・政策について、各党の主張を検証し、より正しいと思われる政党を支援することが必要でしょう。政党を誉め、批判して、育てることが必要です(官僚批判をしているだけでは、良い政治は実現しません)。

政治評論の役割

御厨貴著『馬場恒吾の面目―危機の時代のリベラリスト』(文庫版、2013年、中公文庫)を読みました。
馬場恒吾は、1875年生まれ、1956年死去。20世紀前半のジャーナリストで、昭和前半を独立した政治評論家として活躍しました。戦後は、読売新聞社長を務めています。
勉強になったか所を、引用しておきます、
・・「戦後」70年近くになるが、今や「政治評論よ、何処へ行く」の感を深くする。55年体制と自民党一党優位体制の確立は、まちがいなく政治評論を不毛にした。では55年体制の崩壊とその後の「政治改革」の20年は、どうだっただろうか。いやいっこうに政治評論ははかばかしくなかった。
55年体制下で紡がれたのは、ミクロな政局の叙述と、マクロな政治の展望との二つに集約される議論であった。ミクロとマクロのつなぎの部分が実はない。ジャーナリズム出身者による政治評論はミクロを得意とし、アカデミズム出身者によるそれはマクロに傾斜した。知らず知らずのうちに、相互不可侵の態勢ができあがり、自己満足以上の成果はなく、現実政治に影響力を与える筆の力はなまくらなまま打ち過ぎた。
政治構造の転換を余儀なくされたこの「政治改革」の20年も、小選挙区・二大政党制・政権交代の三題話に収斂する政治評論しかなかった・・(p3、文庫版まえがき。なぜ今、馬場恒吾か―政治評論の復活のために)
この項続く。