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企業・NPOの災害支援、参加企業のCSR

NPOの「民間防災および被災地支援ネットワーク」が、『災害支援の手引き』を発行しました。今日、この冊子の発行を記念して、講演会が開かれました。私も、冒頭の講演をしました。支援企業からは、橋本孝之・日本IBM会長が取り組みをお話しくださいました。
この冊子は、たくさんの企業とNPO(冊子のp62、63)が集まって、作ってくださいました。そのうち、いくつかの企業のCSRを紹介します。
日本IBM「スマーター・シティーズ・チャレンジ」(都市の問題を一緒に解決する活動)。例えば、福島県伊達市での農業再生、ラグビー部員の「石巻伝説」、その2
サノフィ(薬品)の取り組み
ピースボート災害ボランティアセンター。例えば「イマココ・プロジェクト」は、よく考えた人材支援です。

三菱商事の復興支援

三菱商事の小林健社長が、大震災復興に支援(100億円ほか)を決めたいきさつを、4月17日のサンケイビズに書いておられます。「雇用創出につながる投資で復興支援」。藤沢烈さんに、教えてもらいました。
・・私の背中を押したのは、われわれは日本人であるということと、(震災で見た)現実だった。日本人である以上、何かをしなければならない。そう考えたまま東京に帰り、さて何をするか。会社の経営として、収益の規模感からみて、どれくらいの規模でどういうことをやるのか。基金の金額の規模は自分で決めたが、何をするか。100億円を寄付して何もしないのも一つだけどそうではないと感じた。
現場を見てきたらいろいろやることはある。就学困難な学生への緊急支援の奨学金、NPO(特定非営利法人)などを後押しする復興支援助成金、グループ社員によるボランティア活動、まずはこの3つの柱でやろうとなった。そして始めたら復興するまでやらなくてはいけないと思い、トップダウンでやった。みんな協力してくれて、経営会議も取締役会も1週間で決まった・・」
三菱商事の復興支援活動(特に産業復興と雇用創出)は、こちらのページ。ありがとうございます。

大学、社会との関わり方の変遷、2

ところで、自然科学系(理系)では、このように語られる社会との関係ですが、社会科学系(文系)では、どうだったのでしょうか。
まず、政治学、経済学、社会学などで、日本を研究対象にすることで、「輸入業」からの脱皮を進めました。もっとも、西欧の理論や思想を紹介する「輸入業」は、なお続いています。それが一方通行(入超)なら、昔と変わりません。双方向(日本の議論も、国際的な場で一緒に議論する)なら、「国際化」と評価できるでしょう。毎年、外国の専門書がたくさん日本語に翻訳されますが、日本の研究成果はどの程度、外国で知られているのでしょうか。
また、日本の研究者は、国際的な学界でどのような評価を得ているのでしょうか。それとも、そもそも社会科学の世界では、各国で閉じていて、国際的な学界は少ないのでしょうか。
もう一つ、社会との関わりについてです。
先に紹介した文章で、馬場教授は、科学者を社会との関わり方によって次の3つに分類しておられます。
・自然現象を科学的に追求し研究成果を活用することにあまり興味がない「ニールス・ボーア型」
・発明した技術が社会でどう役に立つかに情熱を傾ける「エジソン型」
・その両方を行い、真理を追究しながら社会貢献にも積極的に関与する「パスツール型」
自然科学においてこのような分類があるように、社会科学にあっても、このような分類は意味があると思いました。現在日本が抱えている課題に直接取り組む研究やそれに役立つ研究「実践型研究」と、過去や外国を対象とする「純粋型研究」とに分類するのでしょうか。現在の日本社会を対象としていても、単なる分析にとどまっては、実践型研究にはなりません。
社会との関わり方の一つの事例が、政府や行政との関わり方だと思います。政策にどのように参画するか、提言や審議会委員として発言することも、社会貢献の一例です。
さて、社会科学においては、マックス・ウェーバー(ヴェーバー)が唱えた「価値判断から独立した研究」が、一時もてはやされました。しかし、それでは、社会科学は現実社会の役に立たないのではないでしょうか。
また、これとも関係がありますが、社会科学の多くは、過去の分析に力を用い、未来を語りません。かつて、東京大学出版会のPR誌「UP」2005年6月号で、原島博教授が「理系の人間から見ると、文系の先生は過去の分析が主で、過去から現在を見て、現在で止まっているように見える。未来のことはあまり語らない。一方、工学は、現在の部分は産業界がやっているで、工学部はいつも5年先、10年先の未来を考えていないと成り立たない」といった趣旨を話しておられたことを紹介しました。

社会の変化と地位の変化。百貨店と銀行

4月13日の日経新聞「シリーズ検証 流通革命50年の興亡」は、「老舗百貨店、まさかの統合」でした。三越と伊勢丹、松阪屋と大丸、阪急百貨店と阪神百貨店。伝統ある百貨店が、2007年前後に、相次いでライバルと合併しました。当時このニュースを聞いて驚きました。
記事には、1960年以降の、百貨店とスーパーマーケットとコンビニエンスストアの売上高が、折れ線グラフで出ています(もっとも、昔はスーパーもコンビニもなかったので、それらの数値は途中からです)。
日本の経済成長や業界の発展を反映して、それぞれ初めのうちは右肩上がりですが、1981年にスーパーが百貨店を抜き、1990年頃から百貨店が右肩下がりになります。そして、2007年にコンビニが百貨店を追い抜きます。
J・フロント(松坂屋+大丸)の奥田努相談役が、1970年代のアメリカの事情を語っておられます。アメリカでは、1970年に200社あった百貨店が、1990年には150社になり、2006年には20社を切ったとのことです。
百貨店の合併も驚きましたが、1990年代の都市銀行の合併の方が激しかったです。若い人は、知らないでしょうね。私の大学の同級生がたくさん金融機関に就職しましたが、数年前の同窓会で、同じ名前の銀行や証券会社にいたのは一人もいませんでした。
私は、先進国へ追いつく過程で、次の3つが大きな機能を果たした(地位が高かった)。しかし、追いついたこと、そして日本社会が成熟したことで、そのままでは意義が薄れたと、指摘したことがあります。まあ、話を極端にしているので、そう思って読んでください。
1つは、官僚です。日本が進むべき方向を示します。それは富国強兵、産業振興、インフラとナショナルミニマムのサービス整備でした。
効率よく機能したことで、日本の官僚制は高い評価を得ていました。しかし、目的を達成したことで、そのままの「業態」では、意義が薄れます。
2つめは、銀行です。産業振興やインフラ整備の際に、資金を供給します。これも、間接金融が主要な時代は大きな役割を果たしますが、直接金融の時代になると、存在意義が薄れます。
3つめは、百貨店です。官僚が方向を示し銀行が資金で後押しした「成果」である経済成長を、消費の面から象徴するのが百貨店です。豊かになった庶民が、あこがれの品を買いに行きます。しかし、これも日本が先進国に追いつくことで、あこがれの品はほとんど手に入るようになり、百貨店のありがたみが薄れます。かつては、百貨店のイギリスフェア、フランスフェアが賑わい、大食堂がハレの場でした。サザエさんや、ちび丸子の世界です。
銀行と百貨店にあっては、バブル景気による「見せかけの栄華」と、そのあとの「転落」が、合併などの結果につながりました。

身体が覚えている

復興庁では、安全確認のために、事務所の扉に鍵がかかっています。暗証番号を押して、解錠して入ります。安全のために当然です。先日、暗証番号を変えました。定期的に番号を入れ替えているのです。これも当然です。
ところが、私は毎回のように前の番号を押してしまい、ブザーが鳴ってしまいます。指先が覚えているので、無意識に前の番号を押してしまうのです。
職員が気を利かせて、機械の上に「新しい番号を」との表示を、貼ってくれました。その表示を見ながら、それでも私の指先は、古い番号を押してしまいます。慣れは、恐ろしいものです。