科学者の社会的責任2

科学者の社会的責任」の続きです。藤垣 裕子 著『科学者の社会的責任 』には、次のような記述もあります。

・・・まだ科学者にとっても解明途中で長期影響が予測できない部分を含んだままで、科学にもとづいた何らかの公共的な意思決定を行わねばならない場合に遭遇する・・・
・・・予防原則とは、「環境や人の健康に重大で不可逆な悪影響が生じる恐れがある場合には、その科学的証拠が不十分であっても対策を延期すべきではない、もしくは対策をとるべきである、とするリスク管理の原則」であり、事前警戒原則とも言われる・・・事例としてイタイイタイ病と薬害エイズ事件が取り上げられています。(P39、不確実性下の責任)

公共的意思決定を行うとき、科学者の助言は、一つに定まるべきか、幅があるのが当然だろうかという問題があります。原発事故が事例として取り上げられています。行動指針となる一つの統一的見解を出すのが科学者の責任なのか、幅のある助言をしてあとは市民に選択してもらうのかです。(P47、ユニークボイス(シングルボイス)をめぐって)

議論が組織や制度の壁で固定され、壁を越えた議論が成り立っていないことも、指摘されています。
・・・ところが日本では、市民運動論は環境社会学で、社会構成主義は主にフェミニズム研究で、科学と民主主義は科学技術社会論(STS)でというように、もともとはつながっている潮流が別々の研究領域に分断されている・・・
・・・これまでの日本の社会的責任論は、組織や制度を固定してそこに責任を配分するため、組織を攻撃することが主となってしまい、組織外の人々は他人事ですまされた。「Aという組織がXをしたから、けしからん」で終わってしまうことが多かった・・・(P70)

かつて、手塚洋輔著『戦後行政の構造とディレンマ-予防接種行政の変遷』(2010年、藤原書店)を紹介したことがあります。
予防接種をした場合に、一定の「副作用」が避けられません。しかし、伝染病が 広がっているのに予防接種を行わないと、さらに伝染病が広がります。他方、副作用があるのに予防接種を強行すると、副作用被害が出ます。あちらを立てればこちらが立たない、ジレンマにあるのです。
戦後の早い時期は、副作用を考えずに、予防接種を強制しました。その後、副作用被害が社会問題になると、救済制度をつくりました。そして、現在では、本人 や保護者の同意を得る、任意の接種に変わっています。手塚さんは、ここに行政の責任範囲の縮小、行政の責任回避を見ます。行政と科学者との関係(責任の所在)も、重要な問題です。