原発事故、個人の責任と仕組みの責任

東電福島第一原発事故について、会社幹部の責任を問う裁判が続いています。起訴された幹部たちは、「防ぐことは不可能だった」との発言をしているようです。裁判でどのような判決が出るかは、わかりません。
防止策をとっても防ぐことができなかったとして、またそれは幹部たちの責任でなかったとして、無罪になることもあり得ます。防ぐことができた、幹部に責任があったとしても、証拠が不十分で無罪になることもあります。
では、それで、国民は「そうだよな」と納得するか。ある人が、次のような趣旨のことを述べていました。

・・・「十分な措置を講じても、大災害を引き起こす原発事故を防げない」と判断されるなら、今後、原発を動かすことは難しいでしょう。多くの人が、「そんな危険なものを、動かして良いのか」と思うでしょう。
人間が作った道具や機械は、取り扱い方によって、人を傷つけます。包丁も自動車もそうです。しかし、「通常の注意をしていたら、大きな被害は生じない」との前提で、それら「危険物」を日常生活で使っています。通常の注意では大きな災害を起こす可能性がある装置は、このような判断の外にあります。原発は火力発電所に比べ、事故が起きた際の被害が桁外れに大きいのです。
関係者が「防ぐことはできなかった」と発言するなら、今後も同じようなことが起きる可能性があるので、再度動かしてはいけないことになります・・・

これに関して思い出すのが、日航機御巣鷹山墜落事故(1985年)です。ジャンボジェット機が制御不能となり、墜落しました。製造元であるボーイング社は、圧力隔壁の修理不十分が原因だと認めました。原因を究明して、他のジャンボ機は安全であると宣言したのです。もし原因が不明のままだと、世界中のジャンボ機が飛行禁止になる恐れもあります。これはこれで、一つの経営戦略だと思いました(もっとも、ボーイング社の職員は起訴されていないとのこと。事故の原因究明を優先するためだそうです)。

原因と責任が明らかになれば、次への防止策をとることができます。しかし、「防ぐことができなかった」あるいは「原因はわからない」となると、「じゃあ、そんな危ないものは動かしてはいけない」となります。

なお、今回おきた原発事故が、全く防ぐことができなかったわけではありません。東北電力女川原発は、震源により近かったのですが、津波による事故を起こさず停止しました。
この項続く