明治維新150年

12月20日の朝日新聞オピニオン欄「明治維新150年」、三谷博・教授の「武力よりも公議公論を重視」から。

・・・支配身分の武士と被差別身分がともに廃止され、社会の大幅な再編成が短期間に行われた点で、明治維新は革命といえます。また、維新での死者は約3万人で、フランス革命と比べると2ケタ少ない。暴力をあまり伴わずに権威体制を壊した点で注目すべきです・・・

・・・明治維新には、はっきりとした原因が見当たりません。黒船来航は原因の一つですが、米国や英国は開国という小さな変化を求めただけで、日本を全面的に変えようとしたわけではなかった。個々の変化は微小なのに、結果として巨大な変化が起きたのが維新です。
歴史に「必然」という言葉を使うべきではないと思います。歴史の事象には無数の因果関係が含まれていますが、複雑系研究が示すように、それが未来を固定するわけではない。飛び離れた因果関係が偶然に絡み合って、大きな変化が生じることもあります。
維新でいえば、安政5(1858)年政変がそれです。外国との条約問題と将軍の後継問題が絡み合い、井伊直弼が大老になって、一橋慶喜を14代将軍に推す「一橋派」を一掃した。それが徳川体制の大崩壊の引き金となり、同時に「公議」「公論」や王政復古というアイデアも生まれました。
公議とは政治参加の主張です。それを最初に構想したのは越前藩の橋本左内でした。安政4年に、大大名の中で実力がある人々を政府に集め、同時に身分にかかわらず優秀な人間を登用すべきだと書いています。左内は安政6年に刑死しますが、公議公論と王政復古は10年かけて浸透していき、幕末最後の年には天皇の下に公議による政体をつくることがコンセンサスになった。最初はゆっくり進行したけれど、合意ができてからは一気に進み、反動も小さかった。
フランス革命は逆で、最初の年に国民議会がつくられ、人権宣言が出されます。3年後には王政を廃止しますが、そのあと迷走します。第三共和制で安定するまでに80年かかってしまった・・・