「説明責任」の濫用と誤用

11月18日の朝日新聞オピニオン欄、豊永郁子・早稲田大学教授の「野党・メディアの追及 「説明責任」劇場に陥るな」が、勉強になります。

・・・元の言葉は英語のアカウンタビリティーだ。手前味噌だが、政治の世界の語彙としてのこの語を初めて日本語にしたのは私だったと思う。25年前、最初に書いた論文でのことだ。訳語がなくて困った私は(辛うじて見つけた訳は「会計責任」だった)「答責性」という語を作ったログイン前の続き。このとき敢えて避けたのが「説明責任」という訳だ。単に説明する責任ととられる恐れがあるからだ・・・
(アカウンタビリティーは、サッチャー政権の行政改革・地方自治体改革のキーワードだった)・・・それは個人や組織が与えられた職務をきちんと履行していることを、上位者の求めに応じていつでも説明できる状態にあることを意味する。上位者は個人や組織を評価し、制裁や報賞を与える存在なので、この状態には緊張感が伴う。サッチャー政権は、経営や会計学で用いられていたこの概念を行政組織に適用した。そしてアカウンタビリティーを実現するため、行政組織の各単位の職務を確定し、職務の履行ぶりが数字で示されるシステムの構築を図った・・・

・・・さて、気になるのは、そうした「説明責任」が決まり文句になることで、何か問題が起こった際には、責任者に「説明責任」を問い、あるいは責任者が「説明責任」を果たせば事が済む、とする風潮が生じていることだ。
政界で言えば、典型的には、双方「説明責任」の錦の御旗を掲げ、野党とメディアは執拗に政府に説明を求め、政府、とりわけ首相は喜々として説明する、お決まりの「説明責任」劇場が展開する。悪いことに、ここでは、一方の野党とメディアは「説明責任を果たせ」とボールを政府に投げることで、客観的な事実認定を自ら行うことを避けているように見え、他方の政府は「説明責任を果たす」と言っては、一方的な言い分を述べ立て、自己宣伝の機会を増やしているだけに見える。議論の焦点も、誰かの説明責任が果たされているかどうかに、いつの間にかすりかわっている。
政治家とメディアは「説明責任」を問う手法をしばし禁じ手とし、自ら客観的に事実を認定し、示してはどうか。そしてそうした事実について、何が国民にとって問題かを説明してほしい・・・

マスコミにも野党にも、耳の痛い話です。ぜひ全文をお読みください。