責任者は何と戦うか、その10。自分と戦う

「責任者は何と戦うか」シリーズは、8月末から始まって、断続的に続いてきました。取り上げた敵は、事態の把握、周囲の評価、決める仕組み、身内、議会と世論、敵を見抜く、部下と続いてきました。
最後は、自分との戦いです。これまで取り上げた「敵」をご覧になって分かるように、私は、責任者の敵は正面にいるのではなく、実は後ろ(身内)にいるのだということを、主張したかったのです。そして、最後で最大の身内は、自分自身です。先に取り上げた敵のうち、事態の把握、周囲の評価、敵を見抜くことなどは、本人が正しい評価と判断ができていないことなのです。
周囲の意見に惑わされ、あるいはこれまでの固定観念や思い込みに縛られ、客観的な状況評価を誤り、正しい判断ができないこと。都合の良い解釈に従って、あるいは私情に左右され、厳しい決断ができないこと。困難をおそれ、決断を先延ばしにすることなどです。対立する意見の採択について、判断を先送りしたり、両論併記をしたり。
何度か、日露戦争と太平洋戦争を例に出しました。2つの結果を分けた指導者の違いは何か。それは、明治の指導者たちは、「日本は危うい」と危機感を持っていたのに対して、昭和の指導者たちは、「日本は強い」と驕りを持っていたことでしょう。そして、希望的観測に基づく戦略、負けた実績を隠す大本営発表が続きます。事実に基づく冷静な判断ができなくなっています。さらに、適性を考え司令官を更迭した明治海軍に対し、失敗した作戦の責任を取らせない昭和陸軍と海軍。
もちろん、「勝てば官軍負ければ賊軍」とやらで、勝った場合は全てが良く評価され、負けると全てが悪く評価されることも、考慮しなければなりません。
責任者は、その場限りの対処でなく、また保身でなく、「何が正しいことか」を決断しなければなりません。そしてその決断は、時には孤独なものです。威勢は良いが後先を考えない強硬派や、単なるゴマスリの取り巻きに、惑わされてはなりません。「評価は未来がする」と腹をくくり、歴史の審判を待つのでしょう。