宗教と国家

8日の朝日新聞夕刊が「統一協会、2.3億円で示談。献金女性『国の責任も問う』→増額」を伝えていました。記事によると、宗教団体に献金をした女性が、団体を相手取って損害賠償を求めました。団体側の示談の当初提示額に対し、原告である女性は納得せず、誠意ある対応を取らない場合は、文科省にも責任があり、文科省を被告として責任を追及するとしたそうです。それを受けて、宗教法人側が、増額に応じたとのことです。
この訴訟は、国家と宗教との問題を浮き彫りにする事件です。近代立憲国家は、個人の内面には国家はかかわらないとして、線を引きました。まさにそれが、近代国家の主発点だったのです。フランス革命では、キリスト教と国家が分けられました。日本では1945年に、国家神道と国家が分離されました。イタリアでは、ムッソリーニの時代に、バチカンとイタリア国家との間に、分離協定が結ばれました。
しかし、完全に分離はできず、時々、宗教が政治の世界に顔を出します。政治家が靖国神社にお参りする場合、地方団体が神社にお供えをする場合などです。また、今回のように、文科省の責任を問うとされる場合です。宗教法人を認可する権限は、国と県にあります。しかし、一定の条件があれば認可するというのが法律の規定で、裁量の余地はありません。何が問題になるか。それは、宗教法人だと、税金がかからないのです。ここに、政治と宗教が接点を持ちます。
個人の内面は外からうかがい知ることはできませんから、国家が口出しをしない限り、問題にはなりません。しかし、宗教には、外面的な儀式がつきものです。宗教ではなく、宗教団体や宗教法人が問題になります。
違った局面では、アメリカの大統領は、聖書に手を載せて、就任宣誓をします。イスラム教徒や仏教徒が大統領になったら、どうするのでしょうかね。
9日の日経新聞夕刊に、猪木武徳先生の「海外の日本研究が退潮傾向。薄れる存在感、無知招く」が載っています。1970年代から90年代にかけて、外国人研究者による日本人論がよくありました。しかも、日本人の自尊心をくすぐるような内容です。最近は、見かけなくなりました。また、海外の日本研究機関が、縮小されているとのことです。日本に代わって、イスラム、中国、インドへの関心が高まっています。日本の経済的存在感と、比例しているようです。しかし、世界で日本のことを知ってもらうことは、重要なことです。詳しくは原文をお読みください。